りした。
その日はいろんなことを話合った。夕方になって帰ろうとすると、徳富氏は、
「あなた方にさつまいもを進ぜましょう。私が作ったのです。これ、こんなに大きいのがありますよ。」
と言って、縁の下から小犬のような大きさのさつまいもを、幾つも幾つも掘り出して、それを風呂敷に包もうとした。私達は帰り途の難渋さを思って、幾度か辞退したが、頑固な主人はどうしても承知しなかった。
やっと上高井戸の停留所についた頃には、私達の手は棒のようになっていた。
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芥川龍之介氏の事
今は亡き芥川龍之介氏が、大阪毎日新聞に入社したのは、たしか大正八年の二月末だったと思う。話がまとまると、氏は早速入社の辞を書いてよこした。原稿はすぐに植字場へ廻されて活字に組まれたが、ちょうど政治季節で、おもしろくもない議会の記事が、大手をふって紙面にのさばっている頃なので、その文章はなかなか容易に組み入れられようとしなかった。あまり日数が経つので、私はとうとう気を腐らして、頑固な編輯整理に対する面当《つらあて》から、芥川氏の同意を得て、その原稿を未掲載のまま撤回することにした。そのゲラ刷が一枚残って手もとにあったのを、今日はからずも見つけた。読みかえしてみると、皮肉好きな故人の面目が、ありありと文字の間にうかがわれる。それをここに掲げるのは、故人を愛する人達のために、一つでも多くの思い出を供したい微意に外ならぬ。
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入社の辞
[#地から1字上げ]芥川龍之介
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予は過去二年間、海軍機関学校で英語を教えた。この二年間は、予にとって決して不快な二年間ではない。何故と云えば予は従来、公務の余暇を以て創作に従事し得る――或は創作の余暇を以て公務に従事し得る恩典に浴していたからである。
予の寡聞《かぶん》を以てしても、甲教師は超人哲学の紹介を試みたが為に、文部当局の忌諱《きい》に触れたとか聞いた。乙教師は恋愛問題の創作に耽ったが為に、陸軍当局の譴責を蒙ったそうである。それらの諸先生に比べれば、従来予が官立学校教師として小説家を兼業する事が出来たのは、確に比類稀《ひるいまれ》なる御上《おかみ》の御待遇《ごたいぐう》として、難有く感銘すべきものであろう。尤もこれは甲先生や乙先生が堂々たる本官教授だったのに反して、予は一介《いっかい》の嘱托《しょくたく》教授に過ぎなかったから、予の呼吸し得た自由の空気の如きも、実は海軍当局が予に厚かった結果と云うよりも、或は単に予の存在があれどもなきが如くだった為かも知れない。が、そう解釈する事は独り礼を昨日の上官に失するばかりでなく、予に教師の口を世話してくれた諸先生に対しても甚だ御気の毒の至《いたり》だと思う。だから予は外に差支えのない限り、正に海軍当局の海の如き大度量に感泣して、あの横須賀工廠の恐る可き煤煙を肺の底まで吸いこみながら、永久に「それは犬である」と講釈を繰返して行ってもよかったのである。
が、不幸にして二年間の経験によれば、予は教育家として、殊に未来の海軍将校を陶鋳《とうちゅう》すべき教育家として、いくら己惚れて見た所が、到底然るべき人物ではない。少くとも現代日本の官許教育方針を丸薬の如く服膺《ふくよう》出来ない点だけでも、明《あきらか》に即刻放逐さるべき不良教師である。勿論これだけの自覚があったにしても、一家|眷属《けんぞく》の口が乾上《ひあが》る惧がある以上、予は怪しげな語学の資本を運転させて、どこまでも教育家らしい店構《みせがま》えを張りつづける覚悟でいた。いや、たとい米塩《べいえん》の資《し》に窮さないにしても、下手は下手なりに創作で押して行こうと云う気が出なかったなら、予は何時《いつ》までも名誉ある海軍教授の看板を謹んでぶら下げていたかも知れない。しかし現在の予は、既に過去の予と違って、全精力を創作に費さない限り人生に対しても又予自身に対しても、済まないような気がしているのである。それには単に時間の上から云っても、一週五日間、午前八時から午後三時まで機械の如く学校に出頭している訳に行くものではない。そこで予は遺憾ながら、当局並びに同僚たる文武教官各位の愛顧に反《そむ》いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になった。
新聞は予に人並の給料をくれる。のみならず毎日出社すべき義務さえも強いようとはしない。これは官等の高下をも明かにしない予にとって、白頭《はくとう》と共に勅任官を賜るよりは遥に居心《いごこち》の好い位置である。この意味に於て、予は予自身の為に心から予の入社を祝したいと思う。と同時に又我帝国海軍の為にも、予の如き不良教師が部内に跡を絶った事を同じく心から祝したいと思う。
昔の支那人は「帰らなんいざ、田園|将《まさ》に蕪《ぶ》せんとす」
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