でものを見るより外に仕方がなかった。
 イギリスに小説家として、また下院の議員として相当聞えた A. W. Mason という人がいる。この人はいつも片眼鏡《モノクル》をかけていて、好きな水泳をする場合にも、滅多にそれをはずさないそうだ。あるとき汽車のなかで、その眼鏡を壊したことがあった。すると、片眼が急に風邪をひいてしまったそうだ。鯛もしおっぱい海の水を出て、じかに空気に触れるので、よく風邪でも引いて充血したように、真っ赤な眼をしているのがよくある。
 鯛よ。お前の眼は、これまで外界の自然を、自分の行動と平行してしか見なかった。お前の見る外界は、お前が鰭《ひれ》を動かして前へ進むときには、同じように前へ進み、お前が脊後へ退くときには、同じように背後へ退いた。正面から来て、お前の口さきにぶっつかるものは、お前の眼で見た外界ではなかった。お前は前に立っているものを永久に見ることが出来ないのみならず、左の眼で見たものは、右の眼で見たものとはすっかり違っていた。一つの眼が神を見て、それと遊んでいる同じ瞬間に、今一つの眼は悪魔を見て、その醜い姿に怖れおののくこともあったに相違ない。
 鯛よ。お前は海から引きあげられて、籠に入れられた一刹那、初めて高い空のあなたに、紅熟した南瓜のように円い大きなものを見て、びっくりしたことだろう。あれは太陽といって、多くのものにとって光明と生命との本源であるが、お前がまのあたりあれを見たときは、やがてお前にとっては死であった。
 鯛よ。お前が一つの眼で、そういう不思議な太陽を見ていたときも、今一つの眼は何かつまらぬものを見て、こっそり微笑していたらしかった。それは悲しいことだが、鯛にとっては免れることの出来ない運命であった。

     3

 むかし、支那に張風という老画家があった。仏道に帰依して、二、三十年の間は、少しもなまぐさいものを口にしなかったが、あるとき、友だちの一人が松江の鱸《すずき》を煮ているところへ往き合せたことがあった。張風は皿に盛られた魚の姿を一目見ると、
「忘れもしない。これはうちにいた鷹の子が好いて食べたものだ。」
といって、いきなり箸をとって、うまそうに食べ出した。そしてそれからというものは、平気で肉食をしつづけたということだ。
 私は張風のように、別になまぐさいものを断っているわけではないが、春になって、そこらの海がぼんやり霞んでいるのを見ると、生れ故郷の瀬戸うちの海を思い出して、そこで捕られた魚の金粉を吹いたような鱗をなつかしがることがよくある。
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   蟹

     1

 雨の晴れ間を野路へ出てみた。
 ずぶ濡れになった石のかげから、蟹が一つひょっこりと顔を出していた。
「いよう。蟹か。暫くぶりだったな。」
 私はそう思って微笑した。それが春になって初めて見る蟹だったことは、私がよく知っていた。
 暫く立ちとまって見ていると、蟹は石の下からのこのこと這い出して来た。そして爪立するような脚どりで水溜を渉り、髪を洗う女のように頭を水に突っ伏している雑草の背を踏んで、少し高めになっている芝土の上へあがって来た。
 ふと何かを見つけた蟹は、慌てて芝土に力足を踏みしめ、黒みがかった緑色の甲羅がそっくりかえるばかりに、二つの真赤な大鋏《おおばさみ》を頭の上に振りかざしている。
 怒りっぽい蟹は、一歩《ひとあし》巣から外へ踏み出したかと思うと、じきにもう自分の敵を見つけているのだ。
 彼は傍に立っている私を、好意のある自分の友達とも知らないで、その姿に早くも不安と焦燥とを感じ出し、持前の喧嘩好きな性分から急に赫となって、私に脅迫を試みているのだ。
 万力《まんりき》を思わせるような真赤な大鋏。それはどんな強い敵をも威しつけるのに充分な武器であった。
 そんな恐ろしい武器を揮って、敵を脅かすことに馴れた蟹は、持ち前の怒りっぽい、気短かな性分から、絶えず自分の周囲に敵を作り、絶えずそれがために焦立っているのではなかろうか。
 その気持は私にもよく分る。すべて人間の魂の物蔭には、蟹が一匹ずつかくれていて、それが皆赤い爪を持っているのだ。

 私がこんなことを思っていると、蟹は横柄な足どりで、横這いに草のなかに姿を隠してしまった。

     2

 海に棲むものに擁剣蟹《がざみ》がいる。物もあろうに太陽を敵として、その光明を怖れているこの蟹は、昼間は海底の砂にもぐって、夜にならなければその姿を現わそうとしない。
 擁剣蟹は、脚の附け際の肉がうまいので知られているが、獲られた日によってひどく肉の肥痩が異うことがある。それに気づいた私は、いつだったか出入の魚屋にその理由を訊いたことがあった。魚屋はその荷籠から刺《とげ》のある甲羅を被《き》たこの蟹をつまみ出しながら言った。

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