「奴さん。こんな姿はしていますが、大の明るみ嫌いでしてね。夜分しか外を出歩かない上に、満月の夜のあとさきは、海が明るいので昼だと思って、じっと砂にもぐっていて、餌一つとろうとしないそうですから、多分その故《せい》かも知れませんよ。」
 魚屋の言葉を真実だとすると、擁剣蟹は白熱した太陽の正視を怖れているのみならず、また青白い満月の流盻《ながしめ》をすらも嫌がっているのだ。
 こんな性分の擁剣蟹にとっては、一月でもいい、月のない夜が、せめて満月の出ない夜が、どんなにか望ましいことだろう。一月でもいい、満月の出ない夜が。そんなことが果して有り得るだろうか。――いや、それはあるにはあった。天文学者の言うところによると、紀元八百六十六年の二月には、月は一度も顔を見せなかった。
 月が顔を見せないことはなかったが、満月の夜は一度もなかった。こんなことは世界の開闢以来初めてで、その後も二百五十万年の間に、まず二度とはあるまいといわれているが、そんなことになったのは、前の一月中に満月の夜が二度もあり、続いて三月になってからもまた二度あったので、二月には一度も見られないことになったのだということだ。
 してみると、擁剣蟹がどんなに嫌がったところで、青白い顔をした満月は、月に一度はきっと海の上を見舞うにきまっているので、明るみを好まないこの蟹は、そんな夜になると、静かな波の響にも、青ざめた光の不気味さに怯えつつ、海底の土にでもこっそり潜っている外はなかった。
 やがて闇の夜が来ると、擁剣蟹は急に元気づいて活躍を始める。そして波底の暗がりにまぎれて、大勢の仲間を誘い合せ、海から海へとはてしもない大袈裟な旅を続けることがよくある。夜の海に網を下す漁師たちが、思いがけないあたりでこの蟹を引き揚げて、その遠出に驚くのも、こんな時のことだ。

     3

 潮の退いた干潟を歩いていると、底土の巣から這い出したままの潮招蟹《しおまねぎ》が、甲羅に泥をこびりつけて、忙しそうに食物をあさっているのがよくある。蟹は時々立ち停って、片っ方のずば抜けて大きな大鋏《おおばさみ》を、しかつめらしく上げ下しをしている。自分の身体の全体よりもずっと重そうな大きな脚だ。
 それを見ると、蟹は自分の周囲に、何かしら自分に好意をもたないもののあるのを感じて、それに対って威嚇と侮蔑とを試みているようだ。その相手が海賊のように毛むくじゃらな泥蟹であろうと、狡猾な水禽であろうと、または無干渉な大空そのものであろうと、そんなことは蟹にとってどちらでもいいのだ。

 蟹は唯反抗し、威嚇さえすれば、それで充分なのだ。
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   海老

     1

 潮干狩の季節が来た。
 潮干狩に往って、貝を拾い、魚を獲るのは、それぞれ異った興味があるものだ。海の中も不景気だと見えて、いつもしかめっ面をしている蟹をからかったり、盗人のように夜でなければ出歩かない擁剣蟹《がざみ》を砂の中から掘出したり、富豪《かねもち》のように巣に入口を二つ持っていて、その一つを足で踏まれると、きっと裏口から飛び出す蝦蛄《しゃこ》を押えたりするのもおもしろいものだが、それよりも私の好きなのは、車海老を手捕りにすることだ。
 遠浅な海では、引潮の場合にあまり遊びが過ぎて帰り遅れた魚や、海老などが、そこらの藻草や、砂の窪みにかいつくばって、姿を隠しているのがあるものだ。そんなのを何の気もつかずに踏むと、足の下から海老があわてて跳出すことがよくある。
 海老は弾き豆のように勢いよく飛出すが、あまり遠くへは行かないで、きっとまたそこらの砂の窪みに落ちつくものだ。水影に透してじっと見つめていると、海老は尻尾から先に、浅く砂や藻草にもぐって、やがて背全体をも隠してしまうが、鼻眼鏡のような柄のついた二つの眼だけは外に出して、それとなく自分を驚かせた闖入者を見まもっている。やがて闖入者に他意がないらしいのを見極めると、海老は安心したように、しずかにお洒落の鼻眼鏡の柄を畳んでしまう。
 海老はもう何も見えない。見えないから安心している。
 私たちはそこを狙って、よくこの海の騎士を生捕にしたものだ。
 海老を海の騎士だと呼ぶのに、何の不思議があろう。彼は強い魂をもっている。死ぬまで飛躍を止めようとしない。それにまた彼は兜をかぶっている。その兜は彼にとって少し重過ぎるほどいかめしい拵えだ。

     2

 海老が好きで、その頭を兜として立派に飾りたてたものに、蒔絵師の善吉があった。善吉は羽前の鶴岡に住んでいた人で、明治の初年頃までまだ生きながらえていた。
「俺の家に来て見ろ。金の兜をきた海老がいるぜ。」
 善吉は人を見ると、得意そうによくこんなことをいったものだ。
 それを聞いた人たちのなかには、物ずきにも善吉の家をたずねて
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