枝という枝は数知れぬしなやかな葉を伸ばし、みずみずしい花を吹いている昨日今日、樹の内部では一瞬の休みもなく、夥しい水分が、根より吸い上げられて、噴き上げの水のようなすばらしい力をもって、幹から枝の先々にまで持ち運ばれていることだろう。――私はその激しい動揺を、自分の背に感じて、思わず
「春だな。」
と、心のなかでそういった。そして眼をあげて、頭の上に垂れかかっている枝を見た。
 その瞬間、深い紺色の空の彼方から、小石のようなものが一つ飛んで来て、ひょいと上枝にとまって、身軽に立ちなおったのを見ると、それは一羽の小鳥であった。鳥は黒繻子のような縁をとった灰色の羽をしていた。私は名も知らないこの小さな遊び仲間を眼の前に迎えて心より悦んだ。

 むかし支那に焦澹園という儒者があった。多くの学者のなかから擢んでられて東宮侍講となったが、あるとき進講していると、御庭の立木に飛んで来て、ちろちろと清しい声で鳴く小鳥があった。東宮は眼ざとくそれを見つけて、枝移りするその身軽い動作に心を奪われているらしかった。それに気がついた焦澹園は快からず思って、いきなり進講をやめてしまった。侍講の熱心な言葉が急に聞えなくなったのに驚いた東宮は、自分の仕打に気づいて、残り惜い思いはしながらも、またもとのように居ずまいを直した。侍講はやっと安心したように再び講義を続けたということだ。

 儒者焦澹園のつもりでは、かりにも聖賢の道を聞いている途中で、東宮ともあろうものが、小鳥の素振に気をとられるなどとは、怪しからぬことだというにあるらしいが、しかし、ほんとうのことをいうと、東宮はいいものを見つけたので、侍講は何をさしおいてもそれをほめなければならないはずなのだ。堅苦しい聖賢の道を聞きながら、小鳥の流れるような音律に耳を傾け、溌溂たる動作に眼を奪われるというのは、規律と形式との生活のただ中にいても、なお自然物と戯れ、自然物と楽もうとする、ほしいままな心を失わない証拠で、侍講が今少し賢いか、今少し愚かのどちらかであって、東宮が小鳥に見とれているのをそのまま見遁すことが出来たなら、この年若な貴公子はしかつべらしい聖賢の道よりも、もっと自由で、もっと明るいものを見つけることが出来ただろうと思われる……

 そんな他人のことを考えるひまがあったら、私は自分の見つけた小鳥と遊んだ方がよかった。――小鳥は今持前の身軽さで、枝から枝へととんぼがえりを試みている。その拍子に私は不思議なものを見つけた。
 小鳥は赤いふんどしを締めていた。その尻っぺたにある赤いさし毛は、私をしてそんなことを思わせた。
「何だ。漁師の小せがれのように、赤いまわしなんか締めてさ……」
 私は思わず声を出して笑った。小鳥は臆面もなくまだとんぼがえりを続けている。
 見ているうちに、いつのまにか私の心もとんぼがえりをしていた。
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   桜鯛

     1

 春はどこから来る。
 春は若草の萌えた野道から来るともいい、また都大路の女の着物の色から来るともいうが、津軽海峡をへだてた北海道の平野に、久しく農人の生活を送って来た人の話によると、あちらの春は、野からも山からも来ない。言葉どおりに天そのものから下りて来る。それも一歩ごとにその足跡から花がほほ笑むという、素足の美しい女神ではなく、雄々しい行進曲に合せて、馬を躍らせて来る男性の神様である。強い光に満ちあふれた大空から、黄金の鎧をきらめかせ、ラッパの音高く下りて来るのが、あの雪国の春だそうだ。
 それとは違って、私の知っている春は、広い野原からも来たが、それと同じ頃を見はからって、砂丘のあなたの青い海からもまたやって来た。私の生れ故郷は、瀬戸内海の波の音のきこえる小村で、春になると、桜鯛がよく網に上った、それを売り歩く魚商人の声が、陽気に村々に聞えて来ると、村人は初めて海の春が、自分たちの貧しい食膳にも上るようになったのを喜んだものだ。
 麦の茎が伸び、雲雀が空でちろちろ鳴いていても、海に桜鯛がとれ出したという噂を聞かないうちは、春も何となく寂しかった。

     2

 桜鯛よ。
 網から引あげられて籠に入ったお前は、タニスで発見せられた名高いニイル河神の石像に彫りつけられた河魚のように、いつも横向きになっていて、つぶらな唯一つの眼しか見せていない。そのむかし、アレキサンドル大王の部将として聞えていたアンチゴノスは、自分の横顔《プロフィル》を描かせた最初の人だといわれているが、それはこの男が生れつきのめっかちだったので、その醜さを人に見られまいための用意に過ぎなかった。鯛はアンチゴノスと違って、眼は二つともいい分はなかったが、魚のならわしとして、一つの側面に一つの眼をしか持っていなかったから、籠のなかに寝かされたのでは、その一つの眼
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