せられるが、春の魔法使は、この鳶色の肌をした土人のそれよりももっと巧妙に、もっと秘密に、その魔術の企《たくら》みを仕おおせるだけの技巧と敏慧さとをもっている。
 私はこの頃の野道を歩くとき、自分の足の下にしかけられている春の魔術を思って、足の裏をくすぐられるようなこそばゆさを感じることがよくある。そこらの石ころの下、土くれのかげ、または置き腐れになった古|蓆《むしろ》のなか――といったような、ついこないだまで霜柱に閉じられていた「忘却」と「睡眠」との国から、いろんな草が、小さな獣のような毛むくじゃらな手や、または小鳥のように細めに開けた怜悧そうな眼を覗けているのを数知れず見つけるではないか。こうした生物の、産れてまだ間もない柔かい生命が、私の不注意な足に踏まれて、どうかするととりかえしのつかない傷を負わされまいものでもないのを思うと、滅多に外を出歩くこともできないような気持がする。
 自分におっ被《かぶ》さっているいろんな邪魔ものを手で押しのけ、頭で突き上げて、地べたの上に自分を持ち出して来た草という草は、刻々に葉を伸し、茎を伸して、ひたすらに太陽の微笑と愛撫とに向って近づこうとする。
 その意気込みの激しさ。巻鬚や葉のひとつびとつが、感情をもち、霊魂をもっているかのように、地べたから大空を目ざして躍り上りそうに※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いている。もしかそれぞれの根が、土底深く下りていなかったならば、春の草という草は、鳥のように羽ばたきして太陽を目あてに飛び揚ったかも知れない。
 それはひとり草のみではない。冬中ファキイル僧のように仮死の状態にあったそこらの木々の瘠せかじけた黒い枝には、また生命が甦って、新しい芽を吹き出しているではないか。寒さのうちは老予言者ででもあるように、寂しい姿をして、節くれだった裸の枝で意味ありそうに北極星の彼方を指さしていた公孫樹までが、齢にも不似合な若やぎようで、指さきという指さきをすっかり薄緑に染めておめかしをしている。
 そしてその成長の早さ、変化の目まぐるしさは、実際驚かれるばかりで、春の魔術には、ただ一つの繰返しすらもない。全く飛躍の連続である。
 この魔術の主調をなすものは、生の歓喜であり、生命の不思議である。
[#改ページ]

   まんりょう

 夕方ふと見ると、植込の湿っぽい木かげで、真っ赤なまんりょうの実が、かすかに揺れている。寒い冬を越し、年を越しても、まだ落ちないでいるのだ。
 小鳥の眼のような、つぶらな紅い実が揺れ、厚ぼったい葉が揺れ、茎が揺れ、そしてまた私の心が微かに揺れている……
 謙遜な小さきまんりょうの実よ。お前が夢にもこの夕ぐれ時の天鵝絨《ビロード》のように静かな、その手触りのつめたさをかき乱そうなどと大それた望みをもつものでないことは判っている。いや、お前の立っているその木かげの湿っぽい空気を、自分のものにしようとも思うものでないことは、よく私が知っている。
 お前はただ実の赤さをよろこび、実の重みを楽んでいるに過ぎない。お前は夕ぐれ時の木蔭に、小さな紅提灯をともして、一人でおもしろがっている子供なのだ。
 持って生れたいささかの生命をいたわり、その日その日をさびしく遊んで来たまんりょうよ。
 またしても風もないのに、お前の小さな紅提灯が揺れ、そしてまた私の心が揺れる。
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   小鳥

 春の彼岸過ぎのことだった。
 どこをあてどともなく歩いていると、小さな草の丘に出て来た。丘は新芽を吹き出したばかりの灌木に囲まれていて、なかに円く取り残された空地に、かなり大きな桜の老木が一つ立っていた。
 それを見ると、私は思いがけないところでむかし馴染に出あったような気持で、邪魔になる灌木を押し分けながら、足を早めてその樹の側に近寄って往った。そして滑々した樹の肌をひとしきり手で撫でまわした後、私はそっと自分の背を幹にもたせかけた。
 枝という枝は、それぞれ浅緑の若葉と、爪紅をさした花のつぼみとを持って、また蘇って来た春の情熱に身悶えしている。冬中眠っていた樹の生命は、また元気よくめざめて、樹皮の一重下では、その力づよい脈搏と呼吸とが高く波うっている。
 その道の学者のいうところによると、野中に立っている一本の樺の木は、一日に八百ポンド以上の水分を空中に向って放散している。普通の大きさの水桶でこれだけの水を運ぼうとするには、まずざっと三十二度は通わなければならぬ。もしか人が地べたから樺のてっぺんまでそれを持ち運ぶとして、一度の上り下りに十分かかるものとすれば、それだけの水を運んでしまうには、五時間以上も働かなければならぬことになるといっている。
 樺にしてからがそうだ。桜にしてもそうでないとはいわれまい。とりわけ春は再び樹にかえって来て、
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