u女」は自分の背後を気にして、しきりと帯の結び目のあたりを撫まわしたりするものだが、ちょうどそのように、庭の片隅から日光のただなかに引越して来た山茶花は、小枝の少い自分の背後を気にして、出来合いの見すぼらしい花を三つ四つつけて、やっとばつを合わせているような恰好だ。
 寂しい花だ。
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   魚の旅

 魚の水を離れたようなものだ。――とは、頼りを失って、手も足も出ない場合に用いる言葉だが、しかし魚のなかには、水を離れても、ある期間は立派に生き存えているのがある。南アメリカの熱帯地方に棲んでいるある魚族は、池が狭くて、やけくそな太陽の熱に遠からず水が干上ろうというおそれがある場合には、あらかじめそれを感づいて、もっと広く、もっと冷い水をもとめて、漂泊の旅に上る。そして森の湿地から湿地へと、幾百という魚が群をなして、夜を日に継いでぞろぞろと動いているということだ。
 私も一度山越しの夜道に、草鞋の底で長い縄片のようなものを踏えたことがあった。手にさげた提灯の明りをさしつけて見ると、それは砂まみれになった鰻だった。
「あ、びっくりした。足の裏がぬるっとして滑りそうだったから、てっきり長虫《ながむし》だろうと思ったが……。」私は後から来る連の男に呼びかけた。「何だってまた、鰻がこんなところにまごまごしているんだろう。」
「すっかり秋だな。もう落鰻《おちうなぎ》の時節に入ったのだ。」
 連の男はそこらをのたくっている鰻に落した眼をあげて、暗い空を見た。
 空には星がきらびやかに瞬いて、銀河が白く帯のように落ちかかっていた。
「秋だな。」
と、連の男はも一度繰返していって、秋になると鰻は卵を産みに、山の上の湖から、高原の池から、沼から、小流から、てんでに這い出して来て、あらゆる困難に堪えつつ、河を下って海に入り、長い旅を続けて、遠くフィリッピンあたりまで行くらしいが、その生活の細々したことは、まだはっきり判らないのだというようなことを話して聞かせてくれた。
「奴さん、もうそろそろ旅に出たくなって、そこらの池から、闇にまぎれてぬけ出して来たのさ。」
「へえ、それじゃ、お前もそんな長旅をしている一人なのか。そうとは知らないで、草鞋で踏みつけてすまなかったな。」
 私は砂まみれになった身体のどこかに、傷でも負わせはしなかったろうかと、気がかりになって、提灯の明りでそこらを捜し廻ったが、鰻はもう地べたに姿を見せなかった。
 道の片側には、夜露を帯びた雑草の葉が茂り合い、その蔭をあるかないかの水がちょろちょろと流れていた。遠い海への長旅に絶えず気をとられている鰻は、私たちの気づかないうちに、いつの間にか草をもぐって、そのなかに滑り込んだらしかった。
「まあ、よかった。」
 私は口のなかでそういった。そしてあの粘り強い生命の力さえ失わなかったら、ちっとやそっとの傷はあっても、それはすぐに癒えついて、自分に負わされただけの旅の役目は、きっとしおおせるだろうと思った。
 私たちはまた夜道を急いだ。
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   潔癖

     1

「自分の描く竹は、唯もう胸の逸興を写しただけで、葉や枝の恰好がどうかということはあまり詮議しない。麻としようが、蘆としようが、それは見る人の勝手だ。」
 竹を描く度にこういった元の倪雲林は、竹が好きだっただけに、竹によく似た魂のすがすがしさと潔癖とを持っている画人だった。
 その潔癖といえば、まるで病気かと思われるほどひどいもので、いつも水を盛った盥を側において、自分にも日に幾十度となく顔を洗い、手を濯ぎ、偶に訪ねて来る客人にも、座敷に通る前に、一々手を洗わせなければ承知しなかったものだ。
 あるとき雲林の家に、客が一人泊ったことがあった。主人は自分が手にかけて綺麗に掃除をした庭の植込みが、そんなことに無関心な客人によって、汚されはしまいかとびくびくものでいた。雲林は人間の臭みが自然に沁み込むのをおそれて、自分の描く山水の画幅には、どんなことがあっても、人物を描き添えないというほどな泉石好きだった。
 主人は夜が更けて、客が咳き込むのを聞いた。
「きっとそこらに唾を吐き散らしているかも知れない。」
 そう思うと、この清潔好きな画家は、気に懸ってろくろく睡るわけにゆかなかった。朝になると、彼は早速召使を叩き起して、客が窓外に吐き捨てたらしい唾の痕を捜させた。
 召使はそんなことには馴れていた。彼は露に湿った一枚の桐の葉を折って来た。
「見つかりました、旦那さま。葉の面がこんなに濡れております。」
 雲林は顔をしかめた。そしてその一枚の葉を捨てさせに、遠い村境まで召使を急がせた。

     2

 またあるとき、倪雲林の母が大病にかかったことがあった。雲林は出来ることなら、医者というものは招きたくな
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