ト、物ふりて佗し。それ故に古歌をもつて
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あふことはまばらに編める伊予すだれいよいよ我をわびさするかな
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 我が愚かなる眺めにも、これを思ふに忽然としてわびしき姿なり。また寂寞たり。まことなるかな、青苔日々にあつくとあるも然り。年月をふるといへども、こと訪ふ人もなく、安閑の境界は却つて楽を招き、富貴を願はず、我が惑はぬ年をこそ、秋の夜の長きに老の寝覚のつれづれに思ひ出してしるし侍る。」
といっている。これで見ると、孤蓬庵父子はこの小壺に対すると、その形を見ただけで、もう「わび」の心持に入ることが出来たものと思われる。
 私が梅の実の熟《つ》えて落ちる音を好むのもつまりそれで、その音を聞くと、忽然として閑寂のふところに佗びの心持を味うことが出来るからである。私が梅の樹に取り囲まれた郷里の茅屋に、いまだに断ちがたい愛着を感じているのもそれ。一本の梅の木もない今の借家に絶えず物足りなさを抱かせられているのもそれ。また軒端の梅は実を採るものでなく、音を娯むものとしているのもそれゆえである。
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   菱

     1

 どこをあてどともなく歩いていると、そそけた灌木にとり囲まれた池のほとりに出て来た。池にはところどころに細かい水草が浮いていて、片眼で笑うような午過ぎの日ざしが一杯に落ちかかっている。
 草の路に沿うて池のまわりを歩いていると、ふと菱の実が食べたくなって来た。
 何の故ともわからない。
 支那湖州の菱湖鎮の菱は、味がうまいので聞えたもので、民船であの辺を旅をすると、舷を叩いてよくそれを売りに来るそうだが、私はまだそんなうまい菱の実を味わったことがない。私が少年のころ食べ馴れたのは、自分たちが小舟に乗って、村はずれの池から採って来た普通《ただ》の菱の実で、取り立てて言うほど味のいいものではなかったが、いかつい角を生《はや》した、その堅苦しい恰好がおもしろい上に、歯で噛むと、何とも譬えようのない仄かな匂が、ぷんと歯ぐきに沁み透ったものだ。
 秋が来ると、私がときどき菱の実を思い出すのも、ひとえにその匂をなつかしむからのことだ。
 一わたり池のおもてをあちこちと見わたしても、見覚えのある菱の葉はそこらに見つからなかった。
 ふと小蝦か魚かの白く水の上に跳ねあがるのが見えて、泡のつぶやきのような微かな音が聞かれた。
 その瞬間、私は菱の実の殻を噛み割ったような気持を私の前歯に感じた。

     2

 菱の根は池の底におりて泥のなか深く入っているが、蔓は長く伸びて水の面を這いまわっている。葉柄の腫れ上った三角形の葉は、水の面が皺む度に、たよたよと揺れ動いて、少しの落つきももたない。葉と葉との間にこぼれ咲いた小さな白い花は、真夏のものとは思われないほど佗しいもので、水底からわざわざ這い上って来て、あんなに小さい質素な花で満足しているその遠慮深い小心さは、贅沢好き、濫費好きの夏の太陽から、侮蔑の苦笑をもって酬いらるるに過ぎないかも知れない。

 だが、その小さな、謙遜な花から、兜虫のように、鬼のように、いかつい角を生した青黒い顔の菱の実が生れるのだ。
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   くろかわ

 くろかわという菌がある。二、三寸あまりの黒い蓋を着て、そこらの湿地に立っている。下向きに巻いた蓋をそっと傾けてみると、そこには白羅紗のような裏がついている。京都人はこれを料理につかう場合には、生《なま》のを茹《う》でて、それを熱湯のなかから取出すと、いきなりぴしゃりと板の間に投げつけるのを忘れない。
「なぜそんなことをするのだ。」
と訊くと、
「投げつけられると、菌がびっくりして、その拍子に苦味《にがみ》が幾らか取れるようですから。」
という返事だ。
 こうして残された少しの苦味は、この菌を酢のものにして味わう場合に、唯一つのなくてかなわぬものである。
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   山茶花

 山茶花は泣き笑いをしている。十一月末のいじけ切った植込みのなかに立って、白に、薄紅に、寂しく咲いたその花には、風邪に罹った女の、眼の縁の上気《のぼせ》は、発熱のせいかも知れないと、そっと触ってみると、肌はしっとりと汗ばんで、思いの外冷えきっている、そのつめたさが感じられる。途の通りがかりに飛び込んで来た風来坊の泥棒蜂が、その大きな百日鬘を花びらのなかに突っ込んで、すぐにまたつまらなさそうに引返して往くのは、その蕊の匂があまりに低く、冷いのによることかもしれない。
 これまで薄暗い庭の片隅で、日光に向いた一方にだけ花をもっていた山茶花を、ことしの春先に日当りのいい中央《まんなか》どころに移し植えたことがあった。いつも室の片隅から客に応対することしか知らない「女」を、大勢の群集のまんなかに引張り出すと、
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