訪。夫人は信神の念のあつい妙好人である。
 午すぎの室のうちは、息苦しいほどに熱かった。私は夫人と差向いに四方山の話をしているうちに、夫人が時々それとなく窓の方へ眼をやって、いかにも楽しそうに、
「どうもありがとうございます。」
と、口のなかで小声に言って、ちょっと会釈しているのに気づいた。それが私の談話に対するうけ答えでないのはいうまでもないこと、どうかすると、私の存在をも忘れさせるような、眼に見えない第三者が窓越しに立っていて、それに対する挨拶とも見えるようで、何だかちょっと不気味だった。私は訊いてみた。
「何を言ってらっしゃるの。さっきから。」
「お礼を申し上げてるんですわ。」夫人は小娘のようにちょっと含羞んだ。「あまりお涼しい風が、吹き込んでまいりますもんですから。」
「そんなことまで一々言葉に出して、お礼を言わなければならないんですか。黙って感謝していてもよかりそうなものだのに。」
「いいえ。私達の神様は、人間の感謝が歓喜《よろこび》の声となって、大げさに告白されるのを、大層およろこびになりますよ。」夫人はきっぱりと言った。「黙っていたのでは、かえってお気に召さないんです。神恩《おかげ》は小さくとも、大よろこびでお礼を申上げますと、次にいただけますものは、もっと大きうございます。」
「そこに多少の虚偽が含まれてはいないでしょうか。」
「多少の虚偽はあっても構いません。おかげを喜ぶ度合が強くさえありましたら、嘘から真実が生れ、二二が五ともなれば、七ともなるのでございますよ。」
 B夫人はこう言って、ふと窓越しに外へ眼をやったが、糸瓜棚にだらりとぶら下った長糸瓜を見ると、思わず声を高めた。
「まあ、長い糸瓜ですこと。たんとおかげをいただいてますのね……。」
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   落梅の音

 今年は梅雨前には、雨がひっきりなく降り続いたが、肝腎の梅雨に入ってからは毎日の好天気で、自分の住まっている近くの水田なども水不足で、田植が延びがちになり、宵ごとに聞く蛙の声も何となく力がなかったが、六月も末になってから雨は降り出した。
 初めはしとしとと降り出した雨が、やがて底を抜いたような土砂降りとなり、それが二日も三日も四日も五日も、どうかすると九日も十日も降り続くと、天地は雨の光と影と響とに圧倒されて、草も、木も、鳥も、獣も、野も、山も、また人間も、まるで小さな魚のように、押流されてしまいそうな、危っかしい気持を抱かせられる。この危っかしさを孕んでいるのが梅雨の雨の特徴で、芭蕉の

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さみだれを集めて早し最上川
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という句を読んで、岸を浸さんばかりの濁り水が、矢のように早く走っているのを想像して、眼が眩いそうになるまでに水の力に驚くのも、この危さの気持を感ずるからである。蕪村の

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さみだれや大河を前に家二軒
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も、またこの危さの美を外にしては味われぬ句である。いつの年でも梅雨に入ってどしゃ降りの大雨に、不安な危っかしさを抱かせられる度ごとに、私は喩えがたい一種の快感を覚えぬわけには往かない。
 幾日か降り続いた雨が、やがて降りくたびれた頃は、凡兆のいう

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この頃は小粒になりぬ五月雨
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で、長雨と大雨の憂鬱と不安とから救い出された、激情の後のぐったりした疲れから産れる明るさといったようなものが、分毎に、秒毎に度を加えて来るのもこうした時である。
 また降り続き、降り暮らした雨が、いつか夜になって人の寝静まった後に、こっそり霽れて、それがちょうど月のある頃で、庭木の影が水のように窓障子に浮んでいるのを、ふと眼が覚めて見る驚きなども、梅雨でなくては得られない趣である。
 月の無い、まったくの闇の一夜、夜が更けて寝つかれないでいると、さきがたから降り細った雨はいつしか止んで、草木という草木は、雫のたれる濡れ髪を地べたに突伏したまま、起き上る力もなく、へとへとになっている静かさの底で、ぽたりと何物か地べたに落ちるのを聞きつけることがよくある。
 熟梅《うみうめ》の一つが枝を離れた音である。
 私はどんなときでもこの音を聞きつけると、梅の実が自分の心の深みに落ちて来たかのような、驚きとなつかしみとを感ずる。なに一つ動かない閑寂そのものの微かな溜息が、樹の枝を離れて、真っ直に私の生命の波心にささやきに来たような感じである。

 むかし小堀遠州は、古瀬戸の茶入「伊予すだれ」を愛玩して、これを見ると、心はいつでも「わび」を感じるといって、暫くの間も座右を離さなかった。その子権十郎はまたその小壺に書きつけをして、
「昔年亡父孤蓬庵主小壺をもとめ、伊予すだれと名づけ、その形たとへば編笠といふものに似
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