yの山と海と
私の郷里は水島灘に近い小山の裾にある。山には格別秀れたところもないが、少年時代の遊び場所として、私にとっては忘れがたい土地なのだ。
山は一面に松林で蔽われている。赤松と黒松との程よい交錯。そこでなければ味われない肌理《きめ》の細かい風の音と、健康を喚び覚させるような辛辣な空気の匂とは、私の好きなものの一つであった。
メレジュコオフスキイの『先駆者』を読むと、レオナルド・ダ・ヴィンチが戦争を避けて、友人ジロラモ・メルチの別荘地ヴァプリオに泊っている頃、メルチの子供フランチェスコと連れ立って、近くの森のなかを見て歩く条がある。少年は若芽を吹き出したばかりの木立のかげで、この絶代の知慧者から、自然に対する愛と知識とを教えられているが、こういう指導者を持たなかった私は、いつもたった一人でこの松山を遊び歩いた。そして人知れず行われている樹木の成長と、枯朽とを静かに見入ったり繁みの中から水のように滴り出る小鳥の歌にじっと聴きとれたりした。一葉蘭《いちようらん》が花と葉と、どちらもたった一つずつの、極めて乏しい天恵の下に、それでも自分を娯しむ生活を営んでいるのを知り、社交嫌いな鷦鷯《みそさざい》が、人一倍巣を作ることの上手な世話女房であるのを見たのも、この山のなかであった。フランチェスコは森の静寂のなかで、レオナルドの鉄のような心臓の鼓動を聞きながら、時々同伴者の頭の縮れっ毛や、長い髯が日に輝いているのを盗み見て、神様ではなかろうかと思ったということだが、私も偶に自分の背後や横側で、黒い大きなものが、自分と同じような身振で物に見とれ聞きとれているのを見て、思わずびっくりしたことがあった。それは山の傾斜に落ちている私の影だった。
私はそんなことにも倦むと、山のいただきにある大きな岩の背に寝転んだ。そして自分の上に拡がっている大きな藍色の空をじっと見入った。空にはよく鳶の二、三羽が大幅な輪を描いて舞っていた。私のとりとめない空想は、その鳶の焦茶色に光った翼に載せられて空高く飛んだものだが、どうかすると鳥の描く輪は、次第々々に横に逸れて、いつのまにか私の視野から遠ざかってしまうことがないでもない。振り落された私の空想は、あぶなくもんどりうってまた私のふところに帰って来た。
私はまた海にもよく往った。多くの場合水島灘の浪は女のように静かだった。私は岸の柔かい砂の上に腰をおろして、眼の前を滑って往く船の数をよんだりした。船はいずれも白鳥の翼のような白い帆を張っていた。そして少年のとりとめのない夢を載せて、次から次へと島々のかげに隠れて往った。
海が遠浅なので、私はよく潮の退いた跡へおり立って、蝦や、しゃこや、がざみや、しおまねぎや、鰈や、いろんな貝などを捕った。私はこれらのものの水のなかの生活に親しむにつれて、山の上の草木や、小鳥などと一緒に、自分の朋輩として彼らに深い愛を感ずるようになった。そしてこの世のなかで、人間ばかりが大切なものでないことを思うようになった。
あの小高い赤土の松山と遠浅の海と。――思えばこの二つは、私の少年時代を哺育した道場であった。
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糸瓜と向日葵
八月――日。畑に植えた長糸瓜は、釣上げられた鰻のように、長いからだをだらりと棚からぶら下げている。地べたとすれすれに尖った尻をふっている。一番剽軽で、そして一番長そうな奴を手で押えて、物尺であたってみたら、七尺近くもあった。
糸瓜棚の上に、一、二尺も長い首を持ち上げて、お盆のように大きな花を咲かせていた向日葵は、いつの間にか金の花びらをふるい落して、その跡にざらざらの実を粒立たせているのが見える。立秋からもう十日も経っているのに、相変らず暑い。
K氏来訪。開け放った応接室の窓越しに、ちらと畑の方へ眼をやりながら言った。
「あの向日葵はロシヤ種でしょう。あの実をロシヤ人が噛み割る方法を御存じですか。」
「いや、知りません。どんなにします。」
「それがおかしいんです。まず向日葵の実を一つ歯の間に噛んでおいて、そして……。」K氏は大きな両手でもって妙な恰好をしてみせた。「左の手で頭のてっぺんを押えつけて、右の掌面でいきなり強く下顎をこづき上るんです。こうやって。いかにもロシヤ人らしい食べ方でしょう。」
私はそれを見て、思わず噴き出した。
「まさか……。」
「いや、ほんとうのことですよ。」K氏は不足らしく言った。「私は独逸《ドイツ》の田舎の停車場で、若いロシヤの労働者が、柵にもたれてそれをやっているのを見たんです。嘘だとお思いなら、その時一緒にいた私の友人の独逸人に訊いてみて下さい。」
「その独逸人は、どこにいるんです。」
私は物ずきにも訊いてみた。
「今|伯林《ベルリン》にいますよ。」
K氏が帰った後へ入れかわりにB夫人
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