ゥった。病人があれば、どんな汚い家にでも訪ねて往かなければならない医者のからだは、決して安心の出来る客人ではなかった。しかし、親孝行の彼は、母の病が治したさの一念から、目をつぶって某という医者を迎えることにした。
 医者は町に住んでいた。雲林はそれを迎えに自分の愛馬を送った。馬は主人の清潔好きな癖から、毎日洗い清められて、雪のように白く輝いていた。
 平素から雲林が他人を汚いもの扱いにする癖を知っていて、それをにがにがしいことに思っていた医者は、馬に跨るが早いか、道のぬかるみを選って歩かせ初めた。
 その日はちょうど大雨の後だったので、道のところどころには汚い水溜があった。そんなところへ来ると、医者はわざわざ飛び下りて馬の腹や、尻っぺたを思いきり泥水で汚した。
 医者が雲林の家に着いた時には、馬はどぶ鼠のように汚くなっていた。出迎えた雲林は尻目にそれを見て苦りきっていたが、大事な場合だったので、じっと辛抱していた。医者は導かれて病室に通ったが、出入にそこらの道具に衝き当ったり、主人が大事の文房具を見ると、わざわざ立停って汗だらけの手でいじくりまわしたりした。
 診察がすんで、医者の姿が見えなくなってしまうと、倪雲林の怒りは噴水のように迸り出した。
「お母さま。あなたに治っていただきたさの一念から、私は出来ぬことを辛抱しました。もしか私が病気だったら、死んでもあんな医者は迎えませんよ。」
 倪雲林は、その後五、六日というものは、毎日のように馬を洗い洗いしたということだ。お蔭で泥にまみれた馬の毛は雪のように白くはなったが、一旦傷つけられた主人の潔癖は、長く歪められたままで残っていた。
[#改ページ]

   鶏

 むかし、福井藩に高橋記内という鍔《つば》作りの名人があった。藩主をはじめ、家中のものたちは、その手で作られた鍔を、自分の腰のものにつけていることを誇として、ひどくそれを欲しがっていた。しかし、名人気質の記内は注文があったからといって、おいそれとすぐには仕事にとりかかろうとはしないで、毎日酒ばかり飲んでいた。記内は大の酒好きだった。
 あるとき、殿様からのいいつけで、お側近く仕えている小役人の一人が記内を訪ねて来て、鶏の鍔を注文した。記内は早速承知して殿様お手飼の鶏の拝借方を申し出た。この鍔師が細工はすべて写生をもととして、物の形なり、動作なりを生きているように写し取るところに妙味があるのを知っている役人は、もっともな申出だとして、御鶏を貸し与えた。御鶏は羽の色が純白で、そこらに見られない高価な珍らしいものだった。
 記内は大喜びで、その鶏を仕事場の近くに放った。鶏はしかつめらしい顔つきで、餌を拾いながら、気取った足どりであちこち歩き廻った。
「おい、そんなに気取るなよ。御殿のお庭より、こちとらの門先の方がどんなにか気儘でよかろうというものだ。もっとのんびりとしていてくれよ。」
 記内はこんな冗談口をききながら、わき眼もふらないで鶏の動作を見つめていた。側にはいつものように酒徳利が置いてあった。記内は楽しそうにちびりちびりそれを飲みつづけていた。
 肝腎の鍔が出来ないうちに、記内は毎日飲み溜めた酒の払いに困るようになった。きびしい酒屋の催促に、記内は堪りかねて、持前のずぼらな性分から、御貸下の鶏を売り飛ばしてしまった。
 珍しい純白な鶏は、間もなくまた殿様のお手もとに買い戻されていた。記内の仕業はお上を憚らぬ不敵な振舞だというので、厳重に謹慎をいい渡された。
 ある日、役人の一人がその後の様子を見に記内の家を訪ねた。この鍔作りの名人は戸を閉て切った仕事場のなかで、相も変らず酒に酔っぱらってごろ寝をしていた。
「これは何というざまだ、ほんとうに呆れ返ってしまう。」役人は酒臭い記内を揺り起こしながらいった。「これ、そんなに寝てばかりいないで、早く眼を覚まさんか。お上のお免しを得るには、御注文の品を打ち上げるより外にはないということが、お前には分らんか。」
「寝る、寝るといわれるが、遠慮を申しつけられたのでは、寝るより外には仕方がないのじゃからな。」
 記内は独語のようにぼやいて、やっと起き上った。そしてとろんこの眼で役人の顔を見つけると、不足そうな微笑をうかべた。
「そんなにいわれるなら、これから仕事に取りかかろうから、もう一度あの鶏をお貸下げが願いたいものだな。」
「それはならぬ。お前のことじゃもの、また御鶏を酒手に代えまいものでもない。」
 記内は大声で笑い出した。
「は、は、は、は。そんなに心配だったら、お前様が附添になってござらっしゃればいいじゃないか。」
「なるほどな……」
 役人はいわれた通りに、まさかの時の用意に、自分が附添って御鶏を記内の仕事場に連れ込んだ。御鶏は油断のならぬ顔つきで、横眼で記内の方を盗み見な
前へ 次へ
全61ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング