キ守は言った。
「先日のお言葉に、御老年の御身、次の御参府も望まれないによって、虚堂の墨蹟御覧になりたいとのことでござりましたが、この後とも引続き御参府をお待ちいたせばこそ、わざと今日はお目にかけるのを差控えたのでござります。この次に御参府の節には、きっとお約束を果しますが、しかし、たっての御所望ならば、書院にて御覧に入れよとのことでござりますが……。」
 若狭守が箱の蓋に持ち添えた懸物は、長年の間三斎が夢にも忘れ得なかった虚堂禅師の墨蹟だった。彼が一言所望さえしたなら、その場で直に天下一の禅師の風格に接することが出来るはずだった。実を言えば、彼はもう年をとり過ぎていた。どんな事があって、次の年の参府が出来なくなるかも知れなかった。それを思えば、彼は今生の思い出としても、飽かずその懸物に見入りたかった。彼は思わず、
「しからば、お言葉にあまえまして……。」
と言おうとして、急に口を噤《つぐ》んだ。
 そんなことが言われるべき義理はなかった。かたい約束に背いてまでも、彼の息災を祈ってくれる若い大納言の心遣いを思えば、そんなことは※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気にも出せるわけではなかった。実際大納言の誠心は身に沁みてありがたかった。その心遣いの細かさの前には、懸物を見る機会が、一年遅れようとも、二年遅れようとも、よしまた百年遅れようとも、そんなことを詮議立することは、とても恥かしくて出来なかった。
「有難き仰せには、お礼の申上げようもござりませぬ。お言葉に従いまして、この後も度々参府仕るべく、御懸物はその節あらためて拝見いたすでござりましょう。」
 三斎はこう言って、虚堂の墨蹟を手にとって、丁寧に頭にいただいた。そしてそれを若狭守に返すと、急ぎ足に廊下をすたすたと彼方へ去った。

     4

 聞くところによれば、紀州家では今度の売立で相続税を産み出すとのことだが、虚堂禅師の墨蹟を初め、重だった書画骨董は、それぞれこうした逸話をもっていないものはないはずだから、逸話や伝説を珍重する茶人仲間では、たいした附値を見ることだろうと想像せられる。紀州家の当主は、まず何を措いても、所蔵の書画骨董にこんな逸話を添物にして残しておいてくれた、祖先頼宣に対して感謝しなければなるまい。
 頼宣が老年になって、家を嫡子光貞に譲るとき、次男左京大夫には、茶入や懸物などの家康伝来の名品を幾つか取揃えて譲ったものだ。それを見た渡辺若狭守は不審そうに訊ねた。(この三つの話を通じて、いつでも渡辺若狭守が顔を出すのを、不思議に思う人があるかも知れないが、こういう役はいつも相手を引きたたせて、大きく見せるために存在する、言わば冬瓜の肩にとまった虫のようなもので、それが髯を生やした蟋蟀《こおろぎ》であろうと、若狭守であろうと、どちらにしても少しも差支がない。)
「御次男様へ、茶の湯のお道具、さように数々お譲りになりましたところで、さしあたりお用いになるべき御客様もござりますまいに。」
 すると、頼宣は、
「左京は小身のことゆえ、時には兄に金銀の借用方を申込むこともあろう。その折これを質ぐさに入れたなら、道具は本家にかえり、左京はまた金子を手に入れることが出来ようと思うからじゃ。」
と言ったということだ。してみると、紀州家の当代が、相続税を産みたさに、伝来の重宝を売ったところで、頼宣はただ笑って済ますぐらいのことだろう。
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   遺愛品

 小説家M氏は、脳溢血で懇意の友人にも挨拶しないで、突然歿くなった。毎日日課として、八種ほどの田舎新聞の続き物を何の苦もなく書上げ、その上道頓堀の芝居見物や、古本あさりや、骨董いじりなどに、一日中駈けずり廻って、少しの疲労をも見なかったほど達者な人だったが、歿くなる折には、まるで朽木が倒れるように、ぽくりと往ってしまった。

 入棺式の時刻になると、故人の懇意な友人や門下生達は、思い出の深い書斎に集って、この小説家の遺骸と一緒に、白木の棺に納めるべき遺愛品の撰択について協議を始めた。M氏には子供らしい妙な癖があって、自分に門下生の多いのを誇りたさの念から、一度物を訊きに自分を訪ねて来たものは、誰によらず門人名簿に書き加えていたから、その日そこに集った人達のなかにも、本人はいっぱし懇意な友達のつもりでいても、その名前がちゃんと門人名簿のなかに見つからないとも保証出来なかった。
「井伊大老の短冊などはどんなものでしょう。たしか一、二枚あったように覚えていますが――。」門下生のHという新聞記者は、寝不足な眼をしょぼしょぼさせながら皆の顔を見た。「××新聞に載っていた、大老についての記述が、先生最後の絶筆となったようなわけですから、その縁でもって……。」
「あれは、たしか未完結のままでしたね。」
 故人と同じ
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