テ本道楽で、豆本の蒐集家として聞えた、禿頭の銀行家は、円っこい膝の上で、指の節をぽきぽき鳴らしながら、誰に訊くともなしにこんなことを言った。
「そうです。未完結のままで。」
「そりゃいかん。そんなものを棺に納めたら、かえって故人が妄執の種となるばかりですよ。」
銀行家は、取引先の担保にいかさまな品書きを見つけた折のように、皮肉な笑を見せた。Hはそれなり口を噤んでしまった。
「義士のものはどうだっしゃろ。Mはんの出世作は、たしか義士伝だしたな。」
故人と大の仲よしで、その作物を舞台にかけては、いつも評判をとっていた老俳優の駒十郎は、こんなことを言うのにも、台詞らしい抑揚《めりはり》を忘れなかった。
「さあ……。」
誰かが気のない返事をした。
「いけまへんやろか。」
駒十郎は、てれ隠しに袂から巻煙草を一本取出して、それを口に銜《くわ》えた。身体を動かす度に、香水の匂がぷんぷんあたりに漂った。
「可愛らしい玩具か何かないものかしら。来山の遊女《おやま》人形といったような……。」
胡麻白頭の俳人Sは、縁なしの眼鏡越しに、じろじろあたりを見廻した。自分の玩具好きから、M氏をもその方の趣味に引込もうとして、二、三度手土産に面白い京人形を持って来たことがあるので、それを捜すつもりらしかったが、あいにくその人形は物吝みをしないM氏が、強請《ねだ》られるままに出入の若い女優にくれてしまっていたからそこらに影を見せなかった。
「十万堂の遊女人形は、あれは女房の代りじゃなかったんですか。」故人がかかりつけの医者で、謡曲好きのGは、痺《しびれ》が切れたらしい足を胡坐に組みかえた。「すると、Mさんには、かえって御迷惑になるかも知れませんな。」
皆は意味あり気な眼を見交した。
先刻から襖を開けて、押入に首を突込んだまま、そこに山のように積重ねてある書物を、あれかこれかと捜していたらしい、脚本作者のWは、そのなかから八冊ばかりの大型の和本を取出すと、
「これだ。これだ。これだったら、誰にも異存があろうはずがない。」
と、頓狂な声を立てながら、得意そうに頭の上にふりかざして、皆に見せびらかした。それは西鶴の『好色一代男』で、どの巻も、どの巻も、手持よく保存せられたと見えて、表紙にも小口にも、汚れや痛みなどの極めて少い立派な本だった。
「なるほどね。一代男とはいい思いつきだ。Mさんは夙くから西鶴の歎美者だったしそれに一代男というと……。」
銀行家は、禿げた前額を撫上げながら、ちょっと言葉を切って、にやりとした。
「一代男というと……。」皆は頭のなかで、この草子の主人公世之助が、慾望の限を尽した遊蕩生活を繰返してみた。そして人情のうらおもて、とりわけ女心のかげひなたを知りぬいていたM氏にとって、こんなに好い道づれはまたとあるまいと思った。
「それはいい。Mさんと世之助とでは、きっと話が合うから。」
皆は口を揃えて『好色一代男』を棺に納めることに同意した。そして生前懇意だった人のために、死後好い道づれを見つけることが出来たのを心から喜んだ。
「それじゃ、どなたも御異存はございませんな。」
脚本作者のWが『一代男』八冊を手に取上げて、やっとこなと立上ろうとすると、急に次の間の襖が開いて、
「異存がおまっせ、わてに。」
と、呼びかけながら、いが栗頭の五十恰好の男が入って来た。大阪に名高い古本屋の主人で、M氏とは至って懇意な仲だった。
古本屋の主人は、脚本作者の側に割込むと、ちょっと頭を下げて皆に挨拶した。そして懐中からぺちゃんこになった敷島の袋を取出すと、一本抜取ってそれに火をつけた。
「どなたのお言葉か知りまへんが、一代男をとは殺生だっせ。これを灰にして見なはれ。世間にたんとはない西鶴物が、また一部だけ影を隠すわけだすからな。それにこんな手持のよい一代男は、どこを捜したかて、滅多に見られるわけのものやおまへん。わてがこれを先生に納めたのは、つい先日《こないだ》のことだしたが、その時の値段が確か千五百円だしたぜ。」
「ほう、千五百円。そない高い本とは知らなんだ。どれ、どれ……。」
駒十郎は、喫みさしの煙草を、火鉢の灰に突込んで、その手で脚本作者の膝から、本の一冊を取上げた。あたりの二、三人は、首をのばしてそれを覗き込んだ。
「そんなに高くなったかな。五百円の値を聞いて、びっくりしたのは、つい二、三年前のように思ったが。」古本好きの銀行家は、書物の値段が自分に相談なしに、ぐんぐんせり上っているのが、幾らか不機嫌らしかった。「ともかくも、そんなに高価なものを灰にしてしまっては、遺族の方々にも申訳がないから。」
「じゃ、一代男は思い止まりましょう。」
「外に何か見つかればいいが。」誰かがこんなことを言った。
駒十郎は先刻から挿絵の一つに見とれて、側
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