lを相手にしていなかった。彼は家来中での老巧者として知られた渡辺若狭守直綱を呼んで、何か小声で耳打をした。
若狭守はいそいそと数寄屋に入って往った。そこには老中方が膝を押並べて、いずれも腑に落ちなさそうな顔をして、床の間の懸物に眼をやっていた。若狭守は主人に代って手短に挨拶をした。
「かねて御所望になりました虚堂禅師の墨蹟は、御案内の通り権現様お直々に賜わりました品ゆえに、床に懸けておいてお待ちするのは勿体なく存じますので、皆様のお入を待って、主人自ら懸けて御覧に入れたい所存にござります。しかし、それまでの間を素床《すどこ》のままに致しておくのもどうかと存じまして、代りのものを御覧に入れましたような次第で……」
それを聞くと、客人達は言葉を揃えて感心した。
「御用意のほど、御尤に存じます。」
「しからば御免を蒙って……」若狭守はその機会をはずさなかった。そして声を高めて次の間に呼びかけた。「茶道。これに参って床の軸物をはずしなさい。」
次の襖がさっと開いて、千宗左の姿が現われたかと思うと、床の懸物は手早く取りはずされて、千宗左はまた影のように消えてしまった。すると、入違いに左手に懸物を、右手に矢筈竹を持った主人頼宣が入って来た。皆はその態度の水のような静かさに、覚えず心を惹きつけられてしまった。
懸物は流れるように床の間にかけられた。虚堂禅師の筆は、石のような重みをもって客人達の上に落ちかかって来た。皆はその重みに堪えられないように、思わず頭を下げた。
3
紀伊大納言頼宣は、茶道の稽古は古田|織部正《おりべのかみ》や織田有楽斎を師匠として励んでいたから、利休七哲として有楽斎と肩を並べていた細川三斎から見れば、ちょっと後輩だった。
虚堂禅師の懸物が、家康の手より頼宣に伝えられてから間もなくの事だった。江戸から西国の所領に帰ろうとした三斎は、何かの席上で紀州家の重臣渡辺若狭守直綱に会った。四方山の話のついでに、三斎はこんな事を言った。その頃彼はもうかなりの老年だった。
「今度権現様より御拝領になりました虚堂の御懸物は、天下一と承りますにつけて、一度拝見いたしたいと存じながら、今日までその折がなくて過しましたことは、残念至極でなりませぬ。もしお骨折により、拝見が叶いますならば、今生の面目この上もない事かと存じます。何分御覧の通り、老年の身の上、この度帰国いたしました上は次の参府はとても望まれないことかと存ぜられますので……」
三斎の言葉には、生のあるうちに一つでも多く傑れたものを観て、その風格を味おうとする茶人の謙遜が溢れていた。若狭守はそれに動かされないわけに往かなかった。
「さほどまでの御執心、何とかお取計いいたすでござりましょう。」
若狭守は帰って、このことを頼宣に告げた。頼宣はこころよく承諾した。
「それはいと易いことじゃ。早速案内したがよかろう。」
約束の日が来た。今日こそ生涯の望が達せられて、天下一の虚堂が見られるのだと思うと、三斎は自分の身のまわりが急に明るくなったように感じた。赤坂喰違にある紀州家の門を潜ったときには、胸に動悸をさえ覚えたように思った。
三斎は案内せられて、数寄屋に入った。何よりもさきに床の間を見た彼は、自分の眼を疑わずにはいられなかった。そこに懸けられたのは、清拙派のある僧侶の書いたもので、墨の匂も爽やかには出来ていたが、自分の見たいと思っていた天下一の虚堂ではなかった。
「何か仔細があっての事だろう。」
不思議には思いながらも、三斎はそんな気振も見せないで、静かに席についた。
やがて主人の頼宣が出て来た。彼は自分で茶を立てて、客にすすめた。そして言葉丁寧に挨拶した。
「御所望により、虚堂の墨蹟を御覧に入るべく御招きはいたしたが、都合あって、今日はその運びに参りかねた。前以ってそれを申したら、お入りはなかろうかと存じて、わざと隠し立してお招きいたした次第、なにとぞ悪しからず……」
三斎はそれを聞くと、はっとなって、急に眼の前が暗くなったように思った。だが容子には少しもそんなところは見えなかった。
「ぶしつけな御願を申上げましたのに、お叱りはなくて、かえって御丁寧な御挨拶痛み入ります。御秘蔵の禅師の墨蹟、今日拝見が叶いませぬのは、まことに残念至極に存じますが、また重ねての折をお待ちすることにいたしましょう。」
四方山の雑談の後、三斎は礼を述べて立上った。そして黒書院と白書院とのなかにある廊下に来かかると、そこの杉戸の前に、若狭守が一人立っていた。若狭守は箱から取出した懸物を、蓋の上に持ち添えたまま、先刻から何ものかを待っているらしく思われた。三斎が近づくと、彼はそこに跪《ひざまず》いた。
「お口上にござります。」
三斎もぴたりと歩みを止めて、廊下に跪いた。若
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