キ僧になっていた織田有楽斎が呼びとめた。
「もし、もし。瓜売どの。老年の修行者に瓜をお施し下され。」
 秀吉が自分の荷のなかから、瓜を二つ取出して、その手に載せてやると、有楽斎はそれを見てちょっと眉をしかめた。
「折角じゃが、これは熟れていぬようじゃ。もっと甘そうなのを……。」
と押が強く所望するおかしさに、居合す人達は皆笑いくずれたということだ。闊達な秀吉の気質と真桑瓜の持味とは、うまく調和しそうに思われる。
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   秋が来た

 また秋がやって来た。

 空を見よ。澄みきった桔梗色の美しさ。一雨さっと降り上った後の初夏の青磁色の空の新鮮さもさることながら、大空そのものの底の知られない深さと透明さとは、この頃ならでは仰ぎ見るべくもない。私は建詰った市街の屋根と屋根との間から、ふと紫色の空を見つけて、
「おう、秋だ。」
と思わずそこに立停ったことがよくある。何という清澄さであろう。すぐれた哲人の観心の生涯を他にしては、この世でまたと見られない味である。桔梗色に澄み切ったままでもよいが、ときおり白雲の一つ二つが、掠めたように静かに行き過ぎるのも悪くはない。哲人が観心の生涯にも、どうかすると追懐のちぎれ雲が影を落さないものとも限らない。雲はやがて行き過ぎて、いつの間にかその姿を消してしまう。残るものは桔梗色の深い清澄さそのものである。偶に雲の代りに小鳥の影が矢のように空を横切る事がある。陶工柿右衛門の眼は、すばしこくこれを捉えて、その大皿の円窓に、こうした小鳥の可愛らしい姿を描き残している。
 山の寂黙《じゃくもく》そのものを味うにも、この頃が一番よい。感じ易い木の葉はもうそろそろ散りかかって、透けた木の間から洩れ落ちる昼過ぎの陽の柔かさ。あたりのものかげから冷え冷えと流れて来る山気《さんき》をかき乱すともないつつましやかさを背に感じながら、落葉の径をそことしもなく辿っていると、ふとだしぬけに生きた山の匂をまざまざと鼻さきに嗅ぎつけることがよくある。ちょうど古寺に来て、薄暗い方丈で老和尚と差向いに坐ったとき、黙りこくった和尚その人の肌の匂を感じた折のように、こうした場合には何一つ言葉やもの音を聞かないのが、かえって味いが深いものだ。
 畑には果実が枝も撓むばかりに房々と実のっている。憂鬱な梨、葡萄、女の乳房のように※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−
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