侘助椿
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)室《へや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)―友人西川|一草亭《いっそうてい》氏が、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)一※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《ひとわん》
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一
私は今夕暮近い一室のなかにひとり坐ってゐる。
灰色の薄くらがりは、黒猫のやうに忍び脚でこつそりと室《へや》の片隅から片隅へと這《は》ひ寄つてゐる。その陰影が壁に添うて揺曳くする床の間の柱に、煤《すす》ばんだ花籠がかかつてゐて、厚ぼつたい黒緑《くろみどり》の葉のなかから、杯形《さかづきがた》の白い小ぶりな花が二つ三つ、微かな溜息《ためいき》をついてゐる。
侘助《わびすけ》。侘助椿だ。―友人西川|一草亭《いっさうてい》氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏《ふ》み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。
二
言ひ伝へによると、侘助椿は加藤|肥後守《ひごのかみ》が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲《かささぎ》や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂《うはさ》せられてゐる。現に京都|清水《きよみづ》の成就院では、石榴《ざくろ》のそれのやうな紅い小さな花をもつた椿を「本侘」と名づけて、肥後守が朝鮮から持ち帰つたのは、自分の境内にある老樹だと言つてゐる。実際世間といふものはいい加減なもので、肥後守が腕つ節の人一倍すぐれて強かつた人だけに、荷嵩《にかさ》になりさうな物だつたり、由緒がはつきり判《わか》りかねる品だつたら、その渡来の時日がぴつたり註文に合はうが、合ふまいが、そんなことには一向頓着なく、何もかもこの強者《つはもの》の肩に背負はすつもりで、
「はて、こいつも肥後守ぢや」
「ほい、お次もさうぢや」
といつたふうに、みんな清正の荒くれだつた手がかかつてゐたことに決めてゐるらしい。
三
この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏
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