恋妻であり敵であつた
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)異《ちが》つた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中井|隼太《はやた》氏
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
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中央公論の二月号と三月号とに、文壇諸家の交友録が載つてゐました。そのなかに正宗白鳥氏は今は亡き人の平尾不孤、岩野泡鳴二氏を回想して、二人とももつと生きてゐたら、もつと仕事をしてゐただらうに、惜しいことをしたものだと言つてゐました。ほんたうにさうで、二氏はそれぞれ異《ちが》つた才分をもつてゐて、どちらも長生をすればするほど、それが成長してゆく性質のものだつたのを思ひますと、殊に痛惜の念に堪へません。私は二人ともよく知つてゐましたが、岩野氏は生前すでに一家を成してゐた人だけに、交際も広く友人知己も多かつたのに比べて、平尾氏のはうは、どちらかといふと人間が陰気で、引つ込み思案で、おまけに名前も売り出さないうちに亡くなつたので、今では知つてゐる人も僅かしか残つてゐません。今日はその平尾氏について少し語つてみたいと思ひます。氏の短い一生は、いろんな意味で感慨の深いものがありますから。
平尾氏が早稲田の文科を卒業後、初めて見つけた勤め口は、大阪の造士新聞といふ小《ち》つぽけな週刊新聞でした。造士新聞は今は大阪のある郊外電鉄の専務取締、その当時は弁護士の紀志嘉実氏が、貧しい青年学生を収容するために設けた造士寮の機関新聞でしたが、平尾氏は編輯するやうになつてからは、際だつて文藝の色が鮮やかに見られるやうになりました。
その造士寮には、今中山文化研究所で花形のS医学博士なども、大阪医専の学生としてゐられたやうでした。女学生も三人ばかしゐましたが、そのなかのOさんといふのに、平尾氏が恋をしました。Oさんは金沢在の生れで、朝鮮にもゐたといふことでしたが、いかにも雪国の生れを思はせるやうな、しつかりした、理智の勝つた、主我的で打算的なところの見える婦人でした。その頃Oさんは梅花女学校に通つてゐました。キリスト信者の多いあの学校のなかで、平気で自分の机に小さな仏壇を入れて、仏様を祠《まつ》つてゐたといへば、その気性のほども大抵察しられるだらうと思ひます。
Oさんは、打ち明けられた平尾氏の恋を聞くと、苦しさうに顔色を変へました。誰にも隠してゐたことですが、実をいふとOさんは亭主持ちの体でした。しかもその亭主といふのは、自分の肉親の叔父で、Oさんは乱暴なこの叔父さんのために自分の童貞を汚され、おまけに子供まで持たせられてゐたのでした。思へば思ふほど、自分の一生を蹂躙《じうりん》した男性といふものが憎くて憎くてたまらず、どうかしてかうした不倫の関係から遁れて、女一人で自ら活き自ら教育したいと思つて誰にも知らさず、これまで住んでゐた朝鮮の家を振り捨てて大阪に身を寄せてゐたのでした。Oさんはこんな身体でしたから、人目に子持だなと気づかれるのが恐ろしさに、寮に入つてからまる二年といふもの、女友達がどんなに誘つても、何とかかとか辞柄《じへい》を設けて、一度だつて一緒にお湯には入らなかつたさうです。Oさんは平尾氏の前に、隠さず自分の過去を打ち明けました。
「ただいま申し上げましたやうな次第ですから、私は何をさしおいても、まづ独立するために、私自身を教育しなければなりません。お情けを受けるか受けないかは、その後のことです」
ときつぱり言ひきりましたが、それでも物質的に平尾氏の扶助を受けることになつて、女子大学に入りました。平尾氏はその当時記者生活の月収が四十円か四十五円しかなかつたなかで、毎月この婦人のために、二十円づつ仕送つてゐたやうでした。
ところが、ある日のこと、平尾氏とOさんとの関係が続き物になつて万朝報《よろづてうほう》に掲載されました。それは大分非難の色を帯びた文字でした。今なら何でもない事件ですが、その当時は青年文学者と女子大学生の恋愛といふので、かなり世間から騒がれたものでした。平尾氏の親友で、今は亡き人の角田浩々歌客氏や、中井|隼太《はやた》氏などは、ふだんOさんに慊《あきた》らぬ感情をもつてゐましたから、この騒ぎを機会にOさんときつぱり手を切らせたい、少なくとも深入りはさせたくないといつて、平尾氏の東京行を中止させようと努力しましたが、いつこくな平尾氏は何といつても肯《き》き入れません。しまひには涙を流して、
「僕が行かなかつたら、Oは死んでしまふかも知れない。そんなことがあつたら、諸君は僕にOの生命を弁償することができるか」
と友人たちに喰つてかかる始末なので、皆は呆気にとられて黙つてゐるより仕方がありませんでした。東京行を決心した平尾氏は、旅費その他の調達を金尾
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