《かなを》文淵堂主人に交渉しました。平尾氏はその頃角田氏や私などと一緒に、文淵堂の雑誌事業に関係してゐました。
「金の調達が隙《ひま》どつて、僕の東上が遅れるやうだつたら、Oは死ぬかも知れない。もしかそんなことがあつたら、Oを殺した責任の幾分は君にあるんだから」
といつたやうな交渉の仕振りなので、文淵堂主人は不承無精にその金を調達しなければなりませんでした。かういふと平尾氏は大のイゴイストのやうに聞えますが、(実際氏の友達のあるものは、氏をイゴイストだと思つてゐたやうでした)真実はさうではなく、正直で、一本気で、感情が昂じると、当の目的物以外に、他の思はくなどを構つてゐられない、持前の純な気性の現れに過ぎなかつたのでした。
その頃平尾氏の友達で、家と家との関係から、思ふ女と結婚ができないで苦しんでゐる人がありました。平尾氏はその解決策として、ある方法を友達に申し込みました。それは平尾氏がその女の良人《をつと》として婿入り(女は家の跡取娘でした)をし、恋人同志の縁が結ばれるまで、女の童貞を保護しようといふ案なので、そんな草双紙にでもあるやうな筋書が、すぐ行はれると思つてゐたところに、氏の純な気質が光つてゐました。
悪意のあつた新聞記事は、皮肉にも平尾氏の身の上に好い結果をもたらしました。平尾氏の好意を極度に利用して、もつと学生生活をしようとしてゐた女の気ままは、手厳しい新聞記事のために脆《もろ》くも打ち挫《くじ》かれて、結婚より他に残された途はなくなりました。で、二人は結婚しました。
幸福な日は続きました。その幸福のなかで、平尾氏の一つの失敗と見てもいいのは、自分と同じやうにOさんをも文藝の道に引き込まうとしたことでした。世の中には結婚すると同時に、妻の藝術的天分をも封じてしまふ良人がありますが、また平尾氏のやうに妻を強ひて自分の道に引つ張り込まないではゐられない人もあります。馬に乗るのにそれぞれ流儀があるやうに、妻を取り扱ふにも各自の勝手があるものです。
困つたことが起きました。Oさんは自分の書いた短篇小説を、平尾氏の先輩であるK氏に見てもらひました。よせばいいのに、K氏は煽《おだ》て半分に、
「よくできました。貴女には立派な才分があるやうです。少なくとも平尾君よりは巧いですね」
といつて賞《ほ》めたてました。Oさんはすつかりいい気になつて、それ以後いくぶん自分の良人を軽く見るやうになりました。平尾氏はそれに少しも気がつきませんでした。
さうかうするうちに、平尾氏の持病である肺病がだんだん進んできて、自分の職業にも離れなければならなくなりました。やがて暗い、陰気な、貧しい日が続きました。血色のいい、はち切れさうな肉体をした、健康なOさんは、良人の病気とその苦痛とに対してあまり同情が持てないのみか、時とすると反感をさへ催すことがあるのを自分で知りました。しかも平尾氏は妻を信じ切つて、少しも疑ひませんでした。
藝術を捨てたのではなかつたが、不治の病気を抱いて、死に直面した平尾氏は、藝術よりもむしろ神の救ひを欣求《ごんぐ》しました。で、京都に来て同志社神学校に入りました。法悦を求めて精進してゐる間、二度も三度も咯血《かつけつ》しました。そのうち、Oさんの衣服が一枚二枚と少なくなつてゆくに気がついた平尾氏は、理由《わけ》を訊きました。Oさんは何気ない調子で答へました。
「曲げたんですわ、貴方の薬代や何かの足しにと思つて」
平尾氏は感謝の念に打たれないではゐられませんでした。そのうち氏が病気を推して書いた脚本が、読売新聞社の懸賞募集に当選して、賞金二百円が氏の許に送られました。Oさんはその半額を自分に与へてくれるやうに良人に強請《ねだ》りました。
「これだけあつたら、看護婦学校が卒業できるかと思ひます。そしたら貴方の介抱も思ふやうにできますから」
平尾氏は涙を流して喜びました。賞金の半分は分けられて、妻の懐中《ふところ》に入りました。Oさんはその翌日看護婦学校に入るといつて、手荷物を提げて家を出ました。――そして二度ともう良人の前にその姿を見せませんでした。
妻に逃げられたと知つてから、平尾氏の病気は急に昂進しました。そして息を引取る間際の最後の祈祷はかうでした。
「神よ、願はくばわが妻を忘れさせたまへ」
「神よ、願はくば妻を免したまへ」と祈らうとしても、どうしてもさうは祈り得られないで、掠《かす》めたやうな声で、「わが妻を忘れさせたまへ」といつた心を思ふと、痛はしくなります。
Oさんが薬代のために曲げたといつてゐたその着物は、まさかの時の用意に、一枚一枚と持ち出されて、実はその友達の家に預けられてゐたのでした。自分のものは何ひとつ失はず綺麗に持ち出したOさんは、京都を発ち際にその友達にいひました。
「私は最初の良人
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