立ちとまつて珈琲《コーヒー》皿のやうにまん円く、おまけに珈琲皿のやうに冷たいお月様を見てゐるうち、野尻氏は何だか歌よみらしい気になつた。
野尻氏はチウイング・ガムを噛《しが》むだ折のやうに、口のなかから変な三十一文字を吐き出した。
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「天《あま》の原ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも」
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いい歌だ、いい歌が出来たものだと思つて、今一度よみかへしてみると、それは自分の歌ではなく、百人一首に出てゐる名高い安部仲麿の作だつた。
野尻氏はその歌を繰りかへしながら、じつと空を見てゐると、肝腎の珈琲皿のやうなお月様が三笠の山の上に出てゐない事に気がついた。
「をかしいね。三笠の山に出でし月かもといふからには、ちやんと三笠山のてつぺんに出なければならぬ筈ぢやないか。それにあんな方角から出るなんて。」
実際野尻氏の立つてゐる所から見ると、月は飛んでもない方角から出てゐた。三笠山は何か後暗《うしろくら》い事でもしたやうに黛《くろ》ずんだ春日の杜影《もりかげ》に円い頭を窄《すぼ》めて引つ込んでゐた。
それから後《のち》といふもの、
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