中宮寺の春
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眩《まぶ》し
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)老男爵|北畠治房《きたばたけはるふさ》氏
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(例)[#ここから3字下げ]
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ある歳の一月五日午後二時過ぎのことでした。
私は、その頃まだ達者でゐた法隆寺の老男爵|北畠治房《きたばたけはるふさ》氏と一緒に連れ立つて、名高い法隆寺の夢殿のなかから外へ出てきました。
山国の一月には珍しいほどあたたかい日で、薄暗い堂のなかから出てきた眼には、眩《まぶ》し過ぎるほど太陽は明るく照つてゐました。石段の下には見物客らしい、立派な外套を被《はお》つた四十がらみの紳士がたつた一人立つてゐて、八角造りのこの美しい円堂に見とれてゐたらしく見えました。
北畠老人は、ちよつと立ちどまつてその紳士に呼びかけました。
「おい、お前どこの奴ぢや」
横柄な言葉つきに、紳士はむつとして振り返つたらしいが、すぐ目の前に衝つ立つた老人の、長い白髭を胸まで垂れた、そして人を威圧するやうな眼付きを見ると、何と思つたか、帽子をとつて丁寧にお辞儀をしました。
「はい、神戸の者でございます」
「神戸の奴か。ぢや、法隆寺は初めてぢやの」
「はい、仰せの通り初めてでございます。どうも御立派なものでございますな」
神戸ものの紳士は、この得体のわからない横柄な老人が、その皺くちやな手ひとつで法隆寺を造り上げでもしたかのやうに言つて、またしてもお辞儀を一つつけ加へました。
「一人で見て歩いたつて、お前たちに何が解るもんか。今この男を(と、老人はちよつと顎で私のはうをしやくつて見せながら)中宮寺へ案内してやるところぢやから、お前も一緒についてきたがよからう」
「有り難うございます。それぢやお供させていただきます」
紳士はかう言つて、私にもちよつと目礼をしました。
「ついてくるか。いい心掛けぢや。しばらくでも俺と一緒にゐたら、きつと賢くなれるからの」
老人は独語《ひとりごと》のやうに言つてゐましたが、ぶきつちよな手つきで胸釦をはづしたと思ふと、着古した禿げちよろけの外套を脱いで、それを紳士の前に突き出しました。
「こんなものを着てゐると、肩が凝《こ》つていかん。お前は手ぶらのやうだから持つとつてくれ」
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