紳士は不承無精に古外套を腋《わき》の下に抱へたまま、黙つて私たちの後についてきました。

 松の内といつても、中宮寺の境内は寂しいものでした。北畠老人は案内をも乞はないで、玄関の障子を引き開けざま、づかづかと奥の方へと歩いてゆきました。私たちもその後を追ひました。
 うす暗い本堂の中で、私たちは名高い如意輪観音の坐像を見ました。老人はいつものやうに癇高い声でわめくやうにこの仏像のすぐれてゐることを吹聴しました。神戸の紳士は自分の粗忽を叱られでもしてゐるやうに、「はい、はい」とすなほに応答をしながら、幾度か頭を下げてゐました。
 そこから一つ二つ小間を隔てた座敷に入つてゆくと、来客でもあつた後とみえて、尼寺にふさはしい美しい色の座蒲団が二帖づつ向きあつて行儀よく敷いてありました。北畠老人は、
「くたびれた。しばらく休んでゆくとしよう」
といつて、どかりとその上へ胡坐《あぐら》を組みました。私も老人と向きあつたその一つに坐りました。それを見た老人は急に不機嫌な顔になつて、
「俺の前でその坐りやうは何ぢや。猫の子か何ぞのやうに蒲団の真ん中にちよこなんとして……」
といつて、もじやもじやした髭のなかから唇を尖らせました。
「私の坐りやうがいけないんですか」
 私は面喰つて、きちんと行儀よく坐つた自分の膝に眼を落しました。
「いかん。断じていかん」老人は南瓜《かぼちや》のやうな大きな禿げた頭を横にふりました。「すべて目上の人と差し向ひでゐる時に、座蒲団の真ん中に坐るといふ法はない。膝を前にのり出し敷物を後にずらしておくのがむかしからの慣例《しきたり》ぢや。俺は田舎爺ぢやが、かう見えてもお前に比べるとずつと先輩なんぢやからの」
「それぢや、かうすればいいんですか」
 私は笑ひ笑ひ膝を前にのり出しました。蒲団の綿が厚いので、私の体は畳付《たたみつき》の悪い徳利のやうにどうかすると前へのめりさうでした。
「さう、それで本当の坐りやうぢや」
 老人はやつと機嫌を直して、大きな掌面《てのひら》で皺くちやな顔を撫でまはしました。
 次の間の襖が細目にすうと開いて、誰だかそつとこちらの様子を覗いてゐるらしく見えましたが、やがて中年過ぎの、笑顔のいい、上品な尼さんが、いそいそと茶をもつて入つてきました。
「まあ、まあ。どなたやしらん思ふたら、北畠さんどすかいな。まづ明けましておめでたう存じま
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