らしい虫を見かけた事はありません。私が動き出すと、ばつたり鳴きやみ、私が静かにしてゐると、またことことと鳴き出すといつた調子で、居るといへば居る、居ないといへば居ないやうな虫なのです。
「と、と、と、と、と、……」
何といふ微かな響でせう。「沈黙」そのものよりも、もつと静かで、もつと寂しいのはその声です。「静寂」そのものが、自分の寂しさに堪へられないで、そつと口のなかで呟やいたやうなのはその声です。女の涙、青白い月光の滴り、香ぐはしい花と花との私語。――さういつたもののなかで、茶立虫の声ほど、静かで寂しみのあるものは、またと外にはありますまい。
すべて虫の鳴くのは、その雄が目に見えぬ雌に向つて呼びかけてゐるのです。夏の夕ぐれ、山の上の一本杉でかなかな蝉が鳴くと、その鋭い声は岡を越え、野を越えて、遠く一里下の人里にまで聞えるといひます。また仙台侯が秋毎に将軍家へ献上するために、宮城野の萩原で飼つてゐた松虫は、
「りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん」
と一息に七度まで美しい節を転ばしたさうです。この松虫やかなかな蝉のやうに、高い美しい声を張り上げてゐるのだつたら、眼に見えない異
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