茶立虫
薄田泣菫

 静かな秋の一日、午後三時頃の事でした。家の者はみな遊びに出かけたので、留守居に残された私は部屋に坐つたまま、背を壁にもたせて、何を考へるでもなし、ひとりつくねんとしてゐました。煤けた壁の落ちつきが、冷え冷えと背を伝はつて、しつとりと心の底まで滲みとほるのもいい気持でした。
 先き方まで、土間のどこかで懶さうに鳴いてゐた蟋蟀も、いつのまにか鳴き止んで、あたりはひつそりとしてゐました。
 ふと気がつくと、すぐ側にたてかけた障子のなかから、微かな物音が伝はつて来ます。
「と、と、と、と、と、……」
 美しい銀瓶のなかで、真珠のやうな小粒の湯の玉が一つ一つ爆ぜ割れるのを思はせるやうな響です。間違はうやうもない、茶立虫の声です。――いや、ほんたうの事をいふと、仮にそれを茶立虫の声だときめておくまでの事で、私は今日までまだ一度だつて茶立虫といふ虫を見た事がありません。何でも極めて小さな虫で、自分の頭を障子にこすりつけて、あんな仄かな音を出すのださうで、私は子供の頃から一度この虫の正体を見つけたいものだと思つて、幾度か声をしるべに、そこらの物蔭を探し廻りましたが、一度だつてそれ
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