性に呼びかけることも出来ませうが、茶立虫のあの声では、あまり低過ぎはしないでせうか。
蟋蟀の雌は、その前脚の脛に聴覚をもつてゐるので、夜分草葉や土くれの蔭に、体はぢつとしてゐて、唯前脚を動かすばかりで、おかめ蟋蟀の「りいりい。」閻魔蟋蟀の「ひり、ひり。」、草ひばりの「すえりひ、りひ、りひ。」馬追虫の「すゐつちよ。」を聞きわけて、それぞれ自分の配偶を選ぶといふ事ですが、茶立虫のあの仄かな声を、一尺離れては人間の耳では聞きとり難いあの静かな音を、どこからか聞きつけて尋ねて来るその雌の体は、敏感と怜悧とに光り輝いてゐるだらうと思はれます。
二つの小さな精霊の会合は、詩と冥想との世界と同じやうに、一切の騒音を厭ひます。ここには私語と吐息とすらもが憚られて、只微笑と点頭とのみが、一切を支配し、一切を会得してゐるのだらうと思ひます。
私はさういふ境地がうらやましい。
「と、と、と、と、と、……」
茶立虫は静かにその音を続けてゐます。私はそれをはつきりと聞きとらうとして、両手をそつと畳の上へ、前屈みに耳を障子に押しつけようとしました。その途端、
「と、と、と、……」
の音は、ふつつり消えて
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