水仙の幻想
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)肥《ふと》り肉《じし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小供|騙《だま》し
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すべての草木が冬枯れはてた後園の片隅に、水仙が五つ六つ花をつけてゐる。
そのあるものは、肥《ふと》り肉《じし》の球根がむつちりとした白い肌もあらはに、寒々と乾いた土の上に寝転んだまま、牙彫《げぼ》りの彫物のやうな円みと厚ぽつたさとをもつて、曲りなりに高々と花茎と葉とを持ち上げてゐる。
白みを帯びた緑の、女の指のやうにしなやかに躍つてゐる葉のむらがりと、爪さきで軽く弾《はじ》いたら、冴《さ》え切つた金属性の響でも立てさうな、金と銀との花の盞《さかづき》。
その葉の面《おもて》に、盞の底に、寒さに顫《ふる》へる真冬の日かげと粉雪のかすかな溜息とが、溜つては消え、溜つては消えしてゐる。
水仙は低く息づいてゐる。金と銀との花の盞から静かにこぼれ落ちる金と銀との花の芬香《ふんかう》は、大気の動きにつれて、音もなくあたりに浸《し》み透《とほ》り、また揺曳する。ぼろぼろに乾いたそこらの土は、土塊《つちくれ》は、その香気のために絶えず焚《た》き籠められ、いぶし浄《きよ》められている。水仙は多くの美しい生命をもつものと同じやうに、荒つぽい、かたくなな土の中から生れいでながら、その母なる土を浄めないではおかないのだ。
すべての香気は、人の心に思慕と幻想とを孕《はら》ませる。私は水仙の冷え冷えとした高い芬香に、行ひ澄ました若い尼僧の清らかな生涯を感じる。
蝋石《らうせき》のやうにつめたく、滑らかな肌をしたこの後園の尼僧は、生れつき環境の騒々しさを好まないところから、わざとすべての草木は枯れ落ち、太陽の光さへも涙ぐむこの頃の時季を選び、孤寒と静寂との草庵のなかに、独自の生涯を営み始める。ひとりぽつちといふものは、自分の生活をもつてゐる者にとつては、必ずしも悪い境遇ではない。草木の多くは太陽に酔ひ、また碧空《おをぞら》に酔ふが、時季が時季のこととて、今は太陽の盞も水つぽつくなり、大空の藍碧も煤《すす》けきつてゐる。清浄身《しやうじやうしん》の持主であるこの尼僧は、そんなものには見向きもしないで、その眼はひたすら純白な自らの姿を見つめ、そしてわれとわが清浄心のむせるやうな芬香に酔つゐいる。この
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