春の賦
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)病躯《びやうく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)融通|無碍《むげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]〔昭和9年刊『独楽園』〕
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一
また春が帰つて来た。
病にかかつてこのかた、暑さ寒さが今までになくひどく体にこたへるので、夏が来ると秋を思ひ、冬になると春を恋しがる以外には、何をも知らない私は、ことしの冬が近年になく厳しからうとの前触れがやかましかつただけに、まだ冬至も来ないうちからどれほど春を待ちかねたことか。とりわけこの三、四年、病気と闘ふ気分のめつきり衰へてきた私は、自分の病躯《びやうく》に和やかな、触りのよい春を見つけるか、また秋を迎へるかすることができると、そのたびごとにほつとして、
「まあ、よかつた。一年振りにまたこんないい時候に出会《でくは》すことができて……」
と、心の底より感謝しないではゐられなかつた。
いつも家の中にのみ閉ぢ籠つて、門外へは一歩も踏み出したことのない私は、春が来たからといつて、若い人たちと同じやうに、まだ見ぬ花を尋ねて、あちこちと野山を歩きまはるといふでもないし、また以前よくやつたやうに世間に名の聞えた、もしくはあまり知られてゐない老樹大木を尋ねて、そことしもない旅に上《のぼ》るといふでもない。ただ庭つづきの猫の額ほどの圃《はたけ》を幾度か往き戻りしながら、あたりをじつと見まもるまでのことだ。
草は草で、天鵞絨《ビロード》のやうな贅沢な花びらをかざり立てて、てんでにこつてりしたお化粧《めかし》をした上に、高い香をそこら中にぷんぷんと撒《ま》き散らし、木は木で、若々しい枝葉を油つこい日光の中へ思ふさまのびのびと拡げて、それぞれみづからの生命を楽しんでゐる和やかさ。それを見てゐると、生きることの悦びは、そこらの枝に来合せてゐる鳥のさへづりや、蜜をもとめて花のなかを飛び交してゐる蜜蜂の鼻唄めいた唸《うな》りと一緒に交り合ひ、融け合つて、私の心のうちに滴り落ちるので、ともすれば陰気に曇らうとする私の感情のくまぐままでもが、覚えずぱつと明るくならうとする。
今そこらに芽を出したばかりの若草は、毎日のやうに寸を伸ばしていつて、やがて女の髪のやうに房やかになる
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