ことだらう。私はそれを踏むのが好きだ。素脚《すあし》の足の裏につめたい、やはらかな、擽《くすぐ》るやうな感触を楽しむことができるのも、もうほどなくのことらしい。
 むかし晋の時代に曇始といふ僧があつた。またの名を白足《びやくそく》和尚と呼ばれただけあつて、足の色が顔よりも白く滑らかで、外を出歩く時雨上りの泥水の中をざぶざぶと徒渉《かちわた》りしても、足はそれがために少しも汚されなかつたといふことだ。私の足は和尚のそれとは異《ちが》つて、色が黒く、きめが粗いやうだが、やはらかい若草の葉を踏むと、すぐに緑の色に染まるので、私はそれを見て自分の足の裏からも若やかな春を感じ、春を味はふことができようといふものだ。

        二

 春はすべてのものに強く働きかけようとしてゐる。

 いつの時代のことだつたか、支那に馬明生といふ人があつた。そのころ仙術といふものが流行《はや》つて、それに熟達すると、ながく老といふことを知らないで生きながらへることができるのみか、人間の持つ願望のうちで一番むづかしいといはれる飛翔すらも容易《たやす》くできるといふことを聞いた彼は、早速安期生を訪ねて、弟子入りをした。安期生はその道の第一人者で、さういふことにかけては融通|無碍《むげ》の誉れを持つてゐた。
 馬明生は師についてながい修業の後、やつと金液神丹方といふのを伝授せられた。この神丹を服用すると、その人はいつまでも不老不死で、そしてまた生身《いきみ》のままで鳥のやうに空を飛ぶことができるといふことだつた。
 ながい希望を達して得意になつた彼は、人々に別れを告げて華陰山の山深く入つていつた。そして教へられた通りの秘法で仙薬を錬つた。
 彼はできあがつた薬を大切さうに掌面《てのひら》に載せた。顔にはほがらかな微笑さへも浮んでゐた。
「わしは、今これを服さうとしてゐるのだ。次の瞬間には、わしの身体は鸛《こふのとり》のやうにふはりと空高く舞ひ揚ることができるのだ。大地よ。お前とは久しい間の……」
 彼はかういつて、最後の一瞥《いちべつ》を長い間の昵懇《なじみ》だつた大地の上に投げた。
 その一刹那、彼の心は変つた。彼は掌面に盛つてゐた仙薬の全分量の半分だけを一息にぐつと嚥《の》み下したかと思ふと、残つた半分を惜し気もなくそこらにぶち撒けてしまつた。
 飛仙となつて、羽ばたきの音けたたましく大
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