の口から急場に迫つた証文のいきさつを聞いた家康はにやりと笑ひました。
「笑止至極なことでござるな。さだめし御難儀でござらう」
 家康は即座に正信に言ひつけて、何番目かの具足櫃《ぐそくびつ》を持ち出させ、自分の巾着《はばき》のなかから取り出した鍵でそれを開けさせました。
「その兜《かぶと》の下と、鎧《よろひ》の下とに、封金があるから」
 正信が櫃のなかから二包の封金を取り出すと、家康はその封を切らせました。なかからは金子と一緒に年月日の書付が出ました。家康はそれを手に取つて、
「おう、もう三十年にもなるか……」
と、つくづくとその書付に見入つてゐましたが、しばらくしてやつと気がついたやうにその金子を佐渡守に渡しました。
「しからば、これに百両ござるから、早速|埒《らち》をあけられたがよからう」
 佐渡守は金子を受け取つて、丁寧に挨拶しました。
「まことにお礼の申し上げやうもない有難い仕合せに存じまする。追つて国許へ申しつかはしました上、あらためて越中守方より返上致させますでござりませう」
 その言葉を押へるやうに家康は言ひました。
「いやいや、それは無用の沙汰でござる。この金子は表向へ申しつけて、お渡し申すこともできるが、それらのものに聞かせたうもなければこそ、かやうにして具足のなかより取り出したのでござる。この金子はこの場かぎりのこと、一切沙汰なし、沙汰なし」

 かうして調達した金子のために、忠興は頭の上に落ちかかつた大厄からやつと免れることができました。家康を相手に安々と百両の金子を借り出してきたといへば、ただそれだけでも、松井佐渡守の老巧さ加減は推察できることと思ひます。

 その老巧な松井佐渡も、利休七哲の随一と呼ばれた忠興の家に仕へながら、茶器の鑑定にかけては、目端が利くはうでもないので、そんなことには平素《ふだん》からあまり手出しをしないことに決めてゐました。
 佐渡守は喜平の手から小壺を受け取りました。その無表情な眼はこがね虫のやうにのつそりと小壺の胴を這ひました。
「瀬戸かな。いやさうでもないかな」佐渡守の言葉には、物に臆したやうなあやふやな愚かしいところがありました。しかし、その次の瞬間、喜平を振り返つて見た顔つきには、どこに隠れてゐたかと思はれるやうな「力」と「確かさ」とが強く出てゐました。「薬師峠の一軒茶屋で手に入れたと申しをつたな。幾ら払つて
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