つかはした」
「はい、七十文――かと存じてをります」
「――かとは?」佐渡守は不思議さうに訊きました。
「胴乱ぐるみ置いて参じました。持合せは確かにそれくらゐございましたやうに心得てをります」
 喜平はその日のいきさつを詳しく物語りました。
 それを開くと、佐渡守は瀬戸の小壺などよりも、ずつと興味のあるものに接したかのやうに、声をあげてきさくに笑ひ出しました。
「はははは。その方にしては大博奕《おほばくち》を打つたものだな」
 その後間もなく、主人佐渡守から喜平に銭百文が下りました。喜平は二度それを数へてみましたが、一度目は確かに百文あつたのに、二度目は九十九文しかありませんでした。
「あれもやつぱり、がらくただつたのかな」
 喜平はいつの間にか、小壺のことはすつかり忘れてしまひました。喜平に忘れられた小壺は、佐渡守の屋敷で、いろんなやくざな道具と一緒に、戸棚のなかに投げ込まれて、埃だらけになつてゐました。

        三

 その頃金森出雲守が、自分の所領飛騨国で、小壺狩といふことをして、珍しい肩衝の茶入を発見したことがありました。小壺狩といふのは、民家にそれぞれ持合せてゐる小壺を狩り集めて、そのなかから作柄の飛び離れて秀れたものを、御用の茶器として召し上げられることなのでした。
 滝川一益《たきがはかずます》は、甲州征伐に立派な手柄を立てました。その褒美として、自分では信長所持の茶入|小茄子《こなす》を拝領しようと望んでゐましたのに、その沙汰はなくて、上州|厩橋《うまやばし》に封ぜられました。一益は失望のあまり、
「自分には、茶の湯|冥加《みやうが》は、もう尽きてしまつたのだ」
といつて、涙を流したさうです。
 また毛利元就が、陶晴賢《すゑはるかた》を厳島に攻めた時のことでした。大内義長は戦に負けて、長福寺に逃げ込みました。そこで元就は使者を義長の兄大友宗麟につかはして、義長の生命を助けたものかどうかといふことを訊き合せました。すると、宗麟からは、義長の生命なぞはどうなつても厭はないが、ただその家に伝はつてゐる瓢箪の茶入だけは失はないで、自分に送つてほしいと、返事があつたといふことです。
 このやうに一国一城よりも、骨肉の生命よりも、茶器の価値が重く見られた時代ですから、名器の発見は、その大名にとつては、所領一箇国の加増といふことにもなりました。いや、それ
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