初蛙
薄田泣菫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)飜斗《もんどり》うって
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)存分|軽噪《はしゃ》ごう
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一
古沼の水もぬるみ、蛙もそろそろ鳴き出す頃となりました。月がおぽろに、燻し銀のように沈んだ春の真夜なか時、静かな若葉の木かげに立ちながら、あてもなくじっと傾ける耳に伝わる仄かなおとずれ――
「くる……くる……くる……」
と、古沼の底から生れた水の泡が、円く沼の面に浮びあがったと思うと、そのまま爆ぜ割れるような、それによく似た物の音を聞きますと、
「ああ、もう初蛙が鳴いている……」
と、誰でもがすぐに気付こうというものです。
私はあの初蛙の鳴き声が好きです。寒い冬の間のながい夢からさめて、これから思う存分|軽噪《はしゃ》ごうというその前に、あっちでも、こっちでも、さも四辺の立聞をでも気づかうように、そっと内証で声試しをしているあの音を聞きますと、ちょうど土塊をおし分けて、むっくり頭をもち上げた早蕨か菌かを見るような、無邪気と悪戯っ気とが味わわれます。それは小っぽけな、知恵と元気とに充ちた地の精霊の無邪気と悪戯っ気とです。博識なイソップや、人の悪いアリストファネスが見ていようと、怠け者の小野道風が立っていようと、貧乏詩人の芭蕉庵の主人が聞いていようと、そんな事には少しの頓着もなく、素っ裸の濡れ身のままで柳の枝でぶらんこをしたり、背から腹にかけて砂まみれになったまま、飜斗《もんどり》うって古池に飛び込んだりするのは、この無邪気と悪戯っ気とがさせる業《わざ》です。蛙にはお腹に臍がありません。それだのに臍ばかしか、おまけに良心までも持っているかのように無遠慮に振舞うのです。地の精霊でなくって何うしてあんな悪ふざけと無遠慮とが出来るものでしょう。大きな口と下っ腹とを御覧なさい。地から生れた食意地の張った大食漢《おおものぐい》でなくって、誰があんなものを持っているでしょう。実際あの大きな口と、十二人の子供でも生んだらしい、だぶだぶの下っ腹とは、蛙にとっては掛け替のない宝なのです。性格なのです。本能なのです。霊魂そのものなのです。
蛙のあのすばらしい口と腹とについて、マアク・トエンの面白い短篇小説があります。一寸その荒筋を話してみましょう。
ある所にスマイリイという男がありました。生れつきの博奕好きで、小鳥が二羽立木にとまっているのを見ると、どっちが早く飛ぶだろうかと、すぐ賭を工夫するといった風な、好きな博奕のためにはどんな機会をでも発見する事の出来る男でした。.
この男が蛙を飼っていました。丹精して仕込まれただけあって、蛙は飛ぶ事がひどく得意で、この男の指が一寸お尻をこづくと、ゴム鞠のように跳上って、機みがよかったら途中で二三度とんぼ返りまでして見せました。とりわけ上手なのは幅飛で、この道にかけたらどんな蛙にも負けないだけの技倆を持っていました。スマイリイはこの蛙のお蔭で少からぬ金儲けをしたので、いつもカナリヤ籠に入れて、持ち歩いていました。
ある時、この都に見当らない男が、通りすがりにこの籠を見て、何を飼っているのだと訊くと、スマイリイは、
「鸚鵡とも、カナリヤとも思われようが、実は蛙が一匹さ。」と答えました。
蛙を飼って何にするのだと不思議がると、スマイリイは「幅飛の名人さ、これに追付くような奴はこの辺には一匹だって見当らない。嘘だと思うなら賭をしよう。」と言います。旅の男が、「蛙さえあれば賭けてみたいのだが、あいにく蛙の持ち合せがないので。」と言うと、スマイリイは蛙なら自分が捕って来るとあって、カナリヤ籠をその男に預けて、沼地へ下りて行きました。
暫くすると、スマイリイは蛙を一匹つかまえて帰って来ました。二人は足場を揃えて二匹の蛙を置きました。そして合図の掛声と同時に、自分達の蛙の尻に一寸さわりました。新参の蛙は勢いよく飛びましたが、スマイリイが自慢の蛙は、フランス人のように鯱子張って、一足も踏出そうとしません。まるで鍛冶屋の鉄砧のようだったと言います。お蔭で男は賭けた金で懐を膨らませて帰りました。
スマイリイは悄気きって、その後で自分の蛙の首筋をもって持ち上げました。蛙はその大きな口から小鳥撃ちの散弾を掌面に一杯ほど吐き出しました。この散弾こそ、スマイリイが沼地へ下りて行った留守の間に、旅の男が蛙をつかまえて、茶匙に二杯ほど無理強いに飲み込ませたものでした。
背広服のポケットのように、大切な下っ腹を物入れに使われたのは、蛙にとって全くみじめでした。それにしてもマアク・トエンという人は、本当に碌でなしの、飛んでもない悪戯を思い付く男ですね。
蛙はスマイリイが自慢の奴のように、丹精して仕込みさえすれば、いろんな
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