つ、今も記憶に殘つて讀下の際少からず感興を殺がれ候句は、切めてもの償ひとこそいふべけれ云々のところに候、貴兄にして何故にかゝるコンヴエンシヨナリズムに陷り給ひしにや』といつて寄越されたことがありました。
『しら玉姫』は、明治三十八年六月に滿谷國四郎氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫裝幀で、金尾文淵堂から出版した詩文集で、中に詩は七篇ほどありましたが、この集には三篇だけを輯めて、他の四篇は棄てゝしまひました。何れも民謠體のものです。
『白羊宮』は、明治三十九年五月、滿谷國四郎、鹿子木孟郎二氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫を入れて、金尾文淵堂から出版しました。『白羊宮』といふのは、日が春の白羊宮に位する時、天地開闢したといふ言ひ傳へによつてなづけました。
『あゝ大和にしあらましかば』は、その當時上田敏氏が云はれましたやうに、ブラウニングの“Oh, to be in England”ではじまる例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私に
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