といひ、眞に氣の利いたものだつたことだけはいまだに覺えてゐます。
 たしか、翌三十五年の晩春の頃だつたと思ひます。私は『ゆく春』一卷を嵐峽の水神に捧げて、自分の少年の夢を葬むるべく、船を傭うて保津川の淵に浮べました。そして詩集を十文字にからんだ琴の絃に石の錘をつけて、水底深く沈めたことがありました。あとで誰かにその話をしましたところ、その人は皮肉な笑ひを浮べて、
『惜しいことをしたね、見返しに乞好評と書いて置けばよかつたのに。』
 と申しました。
『二十五絃』は明治三十八年五月、春陽堂から出版されました。私は『ゆく春』出版後、かれこれ二年ほど大阪に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時に引拂つて郷里の方に歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫は岡田三郎助氏の油畫が三色版で七枚はいつてゐました。卷頭の『公孫樹下に立ちて』は三十四年十月、少年の頃世話になつた人をたづねて、作州津山に旅をしましたが、
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