崎紅葉山人を訪ねました時、尾崎氏は書肆からお送りしたこの本を取出して、二度刷は贅澤だと二度ばかりも言つてゐられたのを聞きました。その癖内容の詩については何一つ言つてゐられなかつたのを思ふと、多分尾崎氏は、中の詩は一行も讀まれなかつたものと見えます。恰度その頃、私の親友高安月郊氏が、小説『金字塔』を出版されたことがありました。菊版で、ワツトマンの純白な紙に、富岡鐵齋翁の金字塔といふ字を金箔で捺した清雅な裝幀でしたが、高安氏に會ふと、尾崎氏は同じやうにこの本の裝幀をほめ、
『私もこんなにして本を出してみたい。』
 と、まで云つて居られたさうですが、その折も、肝腎な小説の出來榮えについては、何一つ批評がましい事を云はれなかつたので、よく見ると、『金字塔』のふちは少しも切つてなかつたさうです。私達はその當時、それを話し合つて、『多分紅葉山人には詩は解らないのだらう。』といつて笑つたことがありました。
『ゆく春』の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫には、滿谷國四郎氏の作が四枚はいつてゐて、どれだけ本の美觀を添へたか知れません。滿谷氏は同じ中學の先輩で、代數の教科書の餘白といふ餘白を、すつかり受持教師の百面相で埋めてゐたほどの人でした。私が十八歳の春上京して暫く厄介になつてゐましたのは、牛込宮比町の聞鷄書院といつた漢學の私塾で、塾の先生は山田方谷の門弟宮内鹿川といつた王學の老先生でした。私は鹿子木孟郎氏などと一緒に、そこにおいて貰つて、夜は傳習録の講義などを聞いてゐましたが、その頃は漢學が一向振はなかつたものですから、聞鷄書院の門をくゞる若い學生はたまにしかありません。それには清雅な氣品を備へた宮内先生も、流石に弱られて、ある日のこと、
『どうも學生の足が遠くて困るから、一つ英漢數教授といふことに、看板を塗り替へようと思ふ。ついては英語と數學を教はりに來る學生があつたら、そこを君一つうまくやつてはくれまいか。』
 と、私に相談がありましたので、私も
『先生のお役に立つことなら、どうにかしてみませう。』
 とお引請して、その日からあわてゝ肩揚を下したことがありました。
 英漢數教授の利目は覿面で、その看板が揚がると、三四名の學生がどやどやとはいつて來ました。私はそれに英語と數學とを教へました。ある日のこと、その學生の一人が『若先生………』と
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