いやうな氣持がしない事もありませんでした。
『その後………といつて、お目にかゝるのは今日が初めてでせう。』
 と、私はいひました。
『いゝえ、二度目ですよ。この前、國木田君が生きてゐた頃、どこかでお目にかかつたぢやありませんか。』
 島崎氏は私が物忘れしてゐるのを訝しがるやうな口吻で云はれました。
『そんな筈はありません。こんどが初めてです。』
『なに、二度目ですよ。』
 と、私達は暫く言ひあらそひました。
 實際島崎氏が何といはれたつて、私達が會つたのは、その日が初めてゞした。氏は國木田氏が在世の頃といはれましたが、私が國木田氏に會つたのは、たつた二度で、それも二度とも大阪の土地ででありました。
 その日、島崎氏と何くれとなく話をしてゐますと、
『お父さん只今。』
 と、いつて氏の子供さんが二人連で學校から歸つて來られました。すると島崎氏は、ぶきつちよな手附で、本箱の抽斗から蜜柑を二つ取出して、
『さあ、これを上げますから、おとなしくしていらつしやいよ。今、お客さまですから。』
 と、いつて居られました。
『なか/\おたいていぢやありませんね。』
『なに、男の子はいゝんですが、女の子には弱らされます。この頃は髮結の稽古までさせられてゐるんですからね。』
 私は、そんな話を聞いて、暗然としたことがありました。
 土井晩翠氏はその頃、高山樗牛氏はじめ、赤門出の批評家から頻りに推讚の聲を寄せられてゐましたが、私は土井氏の詩風とはどうも呼吸がぴつたりと合はないものですから、失禮ですが、あまり注意して居りませんでした。その後、氏が世界漫遊の途に上られて、羅馬にキーツの墓を訪はれた時、私がこの詩人を好いてゐたことを思ひ出されて、その墓畔に咲いてゐた紫と紅の花を二三輪摘んで、それを手紙に封じ込めて、遙かに伊太利の旅先から寄越された時には、その友誼をしみじみ嬉しく思ふとともに、もつとよく氏の作を讀んでゐた方がよかつたのだと思ひました。
 私の第二の詩集『ゆく春』は、明治三十四年十月に、前のと同じ金尾文淵堂から出版しました。その頃私は大阪に出て、角田浩々歌客、平尾不孤氏達と一緒に、雜誌『小天地』の編輯をやつてゐました。この詩集は、その頃の出版界に流行した袖珍型の絹表紙で、本文はやはり二度刷でした。中味の二度刷といふことは、その頃の出版界では可なり贅澤と思はれてゐたと見えて、その後尾
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