いつて、改まつて私を呼ぶのです。さうして『先生に訊いたら判るだらうが、今日神樂坂を通つたら、蒲生氏郷の「蒲」といふ字の下に「燒」といふ字を書いた家があつたが、あれは何をする家ですか』と訊くのです。この問題は英語でも數學でもありませんでしたが、私は『それを蒲燒とよむので、鰻の料理のことだ、それはうまいものだよ』と叮嚀に教へたことがありました。その當時蒲燒を知らなかつた若い學生は、その後役人になつて、鰻のぼりにだん/\出世して、そこらを泳ぎまはつてゐるのも思ひ出の一つです。
 その頃の或る夏の夕方、私が一人で塾の留守番をしてゐますと、そこへひよつこりはいつて來た男がありました。その男は、
『私は日暮里にゐるもので、毎日こちらに通ふわけには參りませんから、一週一日でも二日でも、參つた折にたて續けに三四時間、本の講義が聞かしていたゞけないでせうか。』
 といつて頼むのです。その顏をよく見ますと、忘れもしない、代數の教科書に教師の似顏を書き散らしてゐた滿谷國四郎氏でありました。
『なぜ漢學をおやりですか。』
 と訊くと、滿谷氏は、
『自分の師匠の小山正太郎氏が、畫を描く技術は自分が教へるが、それだけでは優れた畫家にはなれない、畫家には思想が要る、それを養ふには是非本を讀めと云はれるので、兎も角もこちらへうかゞつてみることにしました。』
 といふやうなことを話されました。私達はその日から仲の好い友達となりました。で、それから五、六年後の詩集『ゆく春』に同氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫をおたのみすることになつたのです。
 卷頭の『牧笛』は、ずつと以前テオクリトスやヰルギルの牧歌を愛讀したことがありまして、あゝいつたやうな草の香と、野の悲みとを歌つてみたいと思つて試みた作品です。
『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『暗夜樹蔭にたちて』、『郭公の賦』の四篇は同じやうな詩形ですが、この詩形は自分としては幾分の特徴を認めて居ります。
 ソネツトの形式を辿つた八六調十四行詩がこの集には幾篇かありますがそのうちで『あゝ杜國』九首は、當時の時事に憤つた詩でありますが、若い時によくある、物に激して拳骨をふり※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す、まあ、あゝいつた格ですね。
『南畆の人』は、農夫の生活の平和と苦鬪と悲哀とを歌はうとした長篇の試み
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