でしたが、この集には小引だけしか輯めてありません。確かその春の卷だけは、未成稿のまゝ筐底に殘つてゐたやうに思つて、今度そこらを探しましたが、どうしても見付かりませんでした。
『石彫獅子の賦』は、大阪横堀に近い、何とかいふ町の石彫工塲で落想を得た作品でした。滿谷氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫が、立派な出來だつたので、お蔭で詩がどれだけ引立つたか知れません。氏はこの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫を描くために、五六日東京市中の石切塲をたづね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた末、やつと註文通りのものを見付けて、出來上つたのがこの作品だつたといふことです。
この時代には、詩の朗吟といふことが、詩人の仲間に流行しまして、私も京都で一度、大阪で二度ほど公開の席で、朗吟を試みたことがありました。その時歌つた詩は、たしかこの集の『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『破甕の賦』などであつたやうに記憶して居ります。自分の朗吟が滅茶苦茶だつたのに較べて、同じ席で試みられた與謝野寛氏の短歌朗吟が、聲といひ、節といひ、眞に氣の利いたものだつたことだけはいまだに覺えてゐます。
たしか、翌三十五年の晩春の頃だつたと思ひます。私は『ゆく春』一卷を嵐峽の水神に捧げて、自分の少年の夢を葬むるべく、船を傭うて保津川の淵に浮べました。そして詩集を十文字にからんだ琴の絃に石の錘をつけて、水底深く沈めたことがありました。あとで誰かにその話をしましたところ、その人は皮肉な笑ひを浮べて、
『惜しいことをしたね、見返しに乞好評と書いて置けばよかつたのに。』
と申しました。
『二十五絃』は明治三十八年五月、春陽堂から出版されました。私は『ゆく春』出版後、かれこれ二年ほど大阪に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時に引拂つて郷里の方に歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫は岡田三郎助氏の油畫が三色版で七枚はいつてゐました。卷頭の『公孫樹下に立ちて』は三十四年十月、少年の頃世話になつた人をたづねて、作州津山に旅をしましたが、
前へ
次へ
全11ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング