その折近郊に大銀杏の樹が風に吹かれて突つ立つてゐるのを見て出來たのがこの作でした。
『二月の一夜』、『五月の一夜』、『翡翠の賦』、『霜月の一日』、『霜月の一夕』、『神無月の一夜』、『神無月の一日』などは、『ゆく春』のうちの『夕の歌』と同じ詩形の試みで、『雷神の歌』は三十六年一月、私が大阪南本町の文淵堂の二階に病臥してゐますと、急に雪催ひの空が曇つて、激しい雷鳴がありました。それに詩情が動いて、京都加茂神社の傳説と結び合せて出來上つたのがこれで、與謝野氏が編輯してゐた『明星』の四月號に載つたやうに記憶してゐます。
『金剛山の歌』は大阪谷町のさる法華寺に住んでゐる頃、毎朝早く起きて郊外を散歩しましたが、華やかな朝日をうけて、葛城山の山巓が金色に輝いてゐるのをよく見受けましたところから、こんな作が出來ました。
『天馳使の歌』は、『葛城の神』とともに、私が試みました叙事詩の中でも一番長い作物です。伊弉諾、伊弉册の黄泉つ比良坂の傳説と、橋立傳説と、比治山の羽衣傳説とを結び合せて、永遠の女性の慈悲を歌つたのがこの一篇の作意ですが、その當時英國に遊學してゐた島村抱月氏が、彼地でこの作を讀んで『たゞ一つ、今も記憶に殘つて讀下の際少からず感興を殺がれ候句は、切めてもの償ひとこそいふべけれ云々のところに候、貴兄にして何故にかゝるコンヴエンシヨナリズムに陷り給ひしにや』といつて寄越されたことがありました。
『しら玉姫』は、明治三十八年六月に滿谷國四郎氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫裝幀で、金尾文淵堂から出版した詩文集で、中に詩は七篇ほどありましたが、この集には三篇だけを輯めて、他の四篇は棄てゝしまひました。何れも民謠體のものです。
『白羊宮』は、明治三十九年五月、滿谷國四郎、鹿子木孟郎二氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫を入れて、金尾文淵堂から出版しました。『白羊宮』といふのは、日が春の白羊宮に位する時、天地開闢したといふ言ひ傳へによつてなづけました。
『あゝ大和にしあらましかば』は、その當時上田敏氏が云はれましたやうに、ブラウニングの“Oh, to be in England”ではじまる例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私に
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