は已み難い憧憬があります。
『魂の常井』はその當時、早稻田文學を主宰してゐた島村抱月氏から、東儀鉄笛氏に作曲して貰ふからといふ頼みがあつたので書いた作ですが、作曲物にこんなのを書いたのは私の量見違ひでした。思へば東儀氏もよくかうした詩に作曲したものですね。
『零餘子』は、子供の時から私の好きな草の實で、故郷の私の家の垣根には、これがたんと植わつてゐて、秋になると、風もないのに、よく實がほろ/\とこぼれかゝりました。そんなことがこの詩を孕んだのです。
『鶲の歌』は、その獨りぼつちの淋しさにおいて、私の最も好きな鳥を歌つたものですが、あの淋しい鳥の姿と魂とを歌ふには、詩が少し饒舌に過ぎた嫌ひがあるやうです。
『望郷の歌』は、誰も知つてゐる通り、ゲエテのウヰルヘルム・マイステルにあるミニヨンの歌を想ひ浮べながら、京都の四季のうつり變りを歌つてみました。上田敏氏はこの詩の『第三節、第四節の沈靜なるは、新しき日本に生ひ出でし古き花なれ。』と云はれましたが、自分にも第三節第四節が、極く自然に出來たやうに記憶してゐます。
『二十五絃』から『白羊宮』にかけて、私の古語癖が、その頃の讀者や評家をかなり苦しめたやうに承はつてゐます。私もなるべくなら平易な、耳近い言葉で詩を作りたいと思つてゐましたが、何分日本語は、語彙が貧しく、言葉の音調が淺いものですから、私は適當な語を求めて、知らずしらず新しい造語も試みないことはありませんでした。しかし新造語を試みる前に、まづ同じ内容を含蓄する古語の復活すべきものはなからうかと詮議してみました。私は自分でもあまりに古語の復活沙汰に執着し過ぎたことを知らない譯でもなかつたのですが、やるからには徹底的にやり通すのが、私の性分だものですから………。
『十字街頭』は、『白羊宮』の出版後から明治四十一、二年へかけての作品で、その當時いろんな雜誌に公にはしましたが、單行本に取纏めたのは今度がはじめてゞす。
『街頭』は、京都四條寺町で見た小景です。
『をけら詣』は、極月大晦日の夜、京都八坂神社に、元朝の齋火を貰ひに參詣するものが、道の摺違ひに互ひに見ず知らずの男女に、口を極めて惡態を吐き合ふ事實を辨へた上でないと、何を歌つたのか一寸見當がつき兼ねませう。
『葛城の神』は、島村抱月氏が早稻田文學を主宰し出した明治三十九年七月頃の同誌に載せたものです。役の小角が葛城山
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