へ石橋を架けようとして、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、葛城の女神が容貌のみにくいのを他にみられるのを恥ぢて、晝間出合はなかつたので、結縛したといふ傳説に因いて、作意を構へたものです。これを作る時には、無論アイスヒユロスの『プロメシユウス結縛』を想ひ浮べずには居られませんでした。この一篇は、後篇『解脱葛城の神』を俟つて、初めて完成するものなのですが、『解脱葛城の神』は未だ腹案としてのみ殘つて居ります。
『子守唄』は、明治四十一年頃の作です。クリスチナ・ロゼチの『しんぐ・さんぐ』を讀んで、こんなのを作つてみたらと思つて試みたものです。その當時はまだ昨今大流行の童謠といふ言葉はなかつたやうです。一つ一つの唄に、中澤弘光氏の極彩色の木版畫を入れて出版する筈で、版が略ぼ出來上つた頃、出版元が失敗したため、その儘となつてしまひました。その後名越國三郎氏の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫で、友人深江彦一氏の編輯してゐた『郊外生活』といふ雜誌に載せましたのを、短いお伽話と一緒に取纏めて、大正六年十二月冨山房から出版しました。
 顧れば、私は詩の國へ旅立ちのそも/\から一人ぼつちで、道連れといつては誰一人ありませんでした。道中も全く一人ぼつちでした。詩歌の國の仕事は、自分ひとりでなくてはいけないと思つたからです。
 私はこの間、自分で自分の魂をのみ見つめて暮しました。それがためには、仕事と名聞と生活とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭で寂しくはあるが、自分自身の生活をたどることが出來たやうです。
 この詩集を出版するに當り、川田順、三木羅風、芥川龍之介の三氏は幾度か私を刺激して下すつた。名越國三郎氏は書物の裝幀※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫に骨を折つて下すつた。小平初子氏は一部原稿の寫しと口述速記とに力を藉して下さつた。
 以上の諸氏に對して心よりお禮を申述べ、併せてこれまでの詩集出版元が、この合集刊行について、快く同意せられたのに對し感謝いたします。



底本:「明治文學全集 58 土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明 集」筑摩書房
   1967(昭和42)年4月15日発行
底本の親本:「泣菫詩集」大阪毎日新聞社
   1925(大正1
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