黒猫
薄田泣菫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)手拭《てぬぐひ》で

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荷車|曳《ひ》きの

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(例)[#地から1字上げ]〔昭和2年刊『猫の微笑』〕
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「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
 荷車|曳《ひ》きの爺さんは、薄ぎたない手拭《てぬぐひ》で、額の汗を拭《ふ》き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍《わだち》に轢《ひ》き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
 六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
 婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違ヘやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人――協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人――協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨の拵《こしら》へ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
 爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
「私にあやまれと誰が言ひました」
 婦人は強ひて気を落ちつけようとして、袂《たもと》から手巾《ハンケチ》を取り出して鼻先の汗を拭きました。
「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
 爺さんは口論《いさかひ》に言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯《いたづら》つ児《こ》が三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
「いや、あります」婦人はきつぱりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしま
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