した。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
このとき、死にかかつた小猫は痙攣《ひきつ》るやうに後脚をびくびく顫《ふる》はせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行《はや》つて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました。
「さうです。あなたは人間です。だからあやまらなくちやなりません。あなたが過失《あやまち》にしろ小猫を轢き殺したのは悪いことです。自分のした悪いことを後悔してそれをあやまるのは、人間だけにしかできないことなんですからね」
荷車曳きの爺さんは、冷やかに答へました。
「さよか。そないお談義やつたら、また今度の折にしてもらひまつさ。わてらその日稼ぎだすよつて、忙しおますからな」
「それぢや、猫の子があまり可哀さうだとはおもひませんか」
婦人は疳《かん》の高い、きいきいした声を立てました。
「まるで猫狂ひや」爺さんは独語《ひとりごと》のやうに言ひました。「わてがあやまつたら、あんさんは満足だつしやろが、それ聞いたかて、死んだ猫は生きかへらしまへんぜ、奥さん」爺さんは投げ出すやうに言つて、路の真ん中に曳き捨てておいた自分の荷車のはうにそろそろ帰りかけようとして、その蔭に立聴きをしてゐる私の姿が目に入ると、ちよつと笑顔を見せて、「なあ、旦那はん」とつけ加へました。
その瞬間、私は婦人の敵意ある眼をちらと顔に感じました。婦人はやがて腰を屈《かが》めて、取り出した手巾《ハンケチ》のなかに小さな黒猫の死骸を包みました。そして側《そば》に立つて不思議さうにそれに見とれてゐる三、四人の子供たちに呼びかけました。
「いい児だから、あなた方、この猫の子をどこかに埋めてくれない。お駄賃にこれをあげますから」
婦人の指の間には、五十銭銀貨が光つてゐました。子供たちは黙つて互ひに顔を見合せましたが、誰ひとり手を出さうとはしませんでした。
それを見た荷車曳きの爺さんは、また後《あと》がへりをしてきて
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