らない。身體のどの部分にも絶えず新しい力を波立たせ、それを生命の奧で引括めて、よい機を見はからつては、自己を擴大し、充實する生活へ飛躍を試みなければならないのだ。理滿はかうして性慾の煩ひを絶つてから、一心に法華を誦んだお蔭で、佛陀が涅槃《ねはん》の同じ日に息を引き取つたさうだが、そんなにまでして往生の素願を遂げようとも、折角内から燃えて來る焔を自分で塞いでしまつたのでは、その生活は何處かに空洞《がらんどう》のやうな空所があつたに相違ない。それに比べると、久米の仙人の生活には充實があつた。彈力があつた。その生命は永久に若がへつて、私達の生活に脈搏つてゐる。
 女の脛を見て空から落ちた人――私は久米の仙人を思ふと、沼水の底から、自分の莖を引切つてまで、水上の雌花に寄り添つて來る VALLISNERIA の花を思ひ出す。わが脚のちぎれるのも厭はないで、SPERMATOPHORE を雌の外套膜に投げこむ蛸舟の雄を思ひ出す。かういふ全人格の底の底から震ひ動く衝動には、どうかすると、自己を破滅に導かないではおかぬ飛躍がある。それがさうあらうと構ふ事はない。自己の破滅はやがて新しい價値の發見である。
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング