《あやつ》るはただ一人、白き髪の白き髯《ひげ》の翁《おきな》と見ゆ。ゆるく掻《か》く水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮《すいれん》の睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。蕚《うてな》傾けて舟を通したるあとには、軽《かろ》く曳《ひ》く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静《しずけ》さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
 舟は杳然《ようぜん》として何処《いずく》ともなく去る。美しき亡骸《なきがら》と、美しき衣《きぬ》と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人を鞭《むちう》って起《た》たしめたるか、櫂を動かす腕の外《ほか》には活《い》きたる所なきが如くに見ゆる。
 と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く悠然《ゆうぜん》と水を練り行く。長き頸《くび》の高く伸《の》したるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目《わきめ》もふらず、舳《へさき》に立って舟を導く。舟はいずくま
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