土水《どすい》の因果を受くる理《ことわり》なしと思えば。睫《まつげ》に宿る露の珠《たま》に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆《もろ》くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺《そそ》げ。基督《キリスト》も知る、死ぬるまで清き乙女《おとめ》なり」
書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫《ふる》えたるは、老《おい》のためとも悲《かなしみ》のためとも知れず。
女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文《ふみ》を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣《きぬ》にわれを着飾り給え。隙間《すきま》なく黒き布しき詰めたる小船《こぶね》の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇《ばら》、白き百合《ゆり》を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期《ご》なし。父と兄とは唯々《いい》として遺言の如《ごと》く、憐れなる少女《おとめ》の亡骸《なきがら》を舟に運ぶ。
古き江に漣《さざなみ》さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩《こ》むる陰を離れて中流に漕《こ》ぎ出《い》づる。櫂《かい》操
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