逢うのかえって易《やす》きかとも思う。罌粟《けし》散るを憂《う》しとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
 衰えは春野焼く火と小さき胸を侵《お》かして、愁《うれい》は衣に堪えぬ玉骨《ぎょっこつ》を寸々《すんずん》に削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪《むさぼ》る願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束《つか》の間《ま》の春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く蕾《つぼみ》の中にも恨《うらみ》はあり。円《まる》く照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文《ふみ》かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天《あめ》が下《した》に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎《かげろう》燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、
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