《は》いかかる春の頃なり。路《みち》に迷いて御堂《みどう》にしばし憩《いこ》わんと入れば、銀に鏤《ちり》ばむ祭壇の前に、空色の衣《きぬ》を肩より流して、黄金《こがね》の髪に雲を起せるは誰《た》ぞ」
 女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床《ゆか》しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然《こつぜん》と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋《しお》れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天《あま》つ下《くだ》れるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
 逝《ゆ》ける日[#「日」に傍点]は追えども帰らざるに逝ける事[#「事」に傍点]は長《とこ》しえに暗きに葬むる能《あた》わず。思うまじと誓える心に発矢《はっし》と中《あた》る古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処《いずこ》へとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑《おさ》えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう
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