《こく》裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧《くだ》けよと圧《お》す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶《もだえ》を人知れぬ方《かた》へ洩《も》らさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己《おのれ》を誣《し》いたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽《のど》を転《まろ》び出《い》でたり。
 ひく浪《なみ》の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛《か》む勢《いきおい》の、前よりは凄《すさま》じきを、浪|自《みずか》らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然《ゆうぜん》として常よりも切なきわれに復《かえ》る。何事も解せぬ風情《ふぜい》に、驚ろきの眉《まゆ》をわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少《しば》らく前のアーサーにあらず。
 人を傷《きずつ》けたるわが罪を悔ゆるとき
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