は薄き履《くつ》に三たび石の床《ゆか》を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
 夫に二心《ふたごころ》なきを神の道との教《おしえ》は古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉《うれ》しと見しも君がためなり。春風《しゅんぷう》に心なく、花|自《おのずか》ら開く。花に罪ありとは下《くだ》れる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明《あきらか》なるは鏡の徳なり。かく観ずる裡《うち》に、人にも世にも振り棄《す》てられたる時の慰藉《いしゃ》はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆《くつが》えされて、踵《くびす》を支《ささ》うるに一塵《いちじん》だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎《とが》も恐れず、世を憚《はばか》りの関《せき》一重《ひとえ》あなたへ越せば、生涯の落《お》ち付《つき》はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府《よみ》へ隕《お》つる。わが坐《す》わる床几の底抜けて、わが乗る壇の床|崩《くず》れて、わが踏む大地の殻
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