え》を滑《なめら》かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来《きた》る期《ご》はなかろう。
やがてわが部屋の戸帳《とばり》を開きて、エレーンは壁に釣《つ》る長き衣《きぬ》を取り出《いだ》す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜《よる》を呑《の》んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮《あざや》かである。エレーンは衣の領《えり》を右手《めて》につるして、暫《しば》らくは眩《まば》ゆきものと眺《なが》めたるが、やがて左に握る短刀を鞘《さや》ながら二、三度振る。からからと床《ゆか》に音さして、すわという間《ま》に閃《ひらめ》きは目を掠《かす》めて紅《くれない》深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭《てしょく》は、風に打たれて颯《さ》と消えた。外は片破月《かたわれづき》の空に更《ふ》けたり。
右手《めて》に捧《ささ》ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居《すまい》、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも
前へ
次へ
全52ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング