きて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛《かわゆ》き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟《たた》りを据えての恐《おそれ》と苦しみである。今宵《こよい》の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失《う》せて、求むれども遂《つい》に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司《つかさ》どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇《く》しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪《うしな》える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂《ひさし》深き兜《かぶと》の奥より、高き櫓《やぐら》を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡《う》せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微《かす》かなる毛孔《けあな》の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千|壺《こ》の香油を注いで、日にその膚《はだ
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