やせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括《くく》る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼《まぶた》に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館《やかた》こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐《あわ》れの胸に漲《みなぎ》るは、鎖《とざ》せる雲の自《おのずか》ら晴れて、麗《うらら》かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋《うず》めて千里の外《ほか》に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目《びもく》にはたと行き逢える今の思《おもい》は、坑《あな》を出でて天下の春風《はるかぜ》に吹かれたるが如きを――言葉さえ交《か》わさず、あすの別れとはつれなし。
 燭《しょく》尽きて更《こう》を惜《おし》めども、更尽きて客は寝《い》ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳《ひとみ》の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力《つと》めたれど詮《せん》なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏《うち》に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂《たま》消《ぎ》える物《もの》の怪《け》の話におのの
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